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箱庭と猫 第二部 ―聖霊の試練編― 下  作者: 山本陽之介
第1章 紅蓮ヲ断ツ

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第9話 フローの深度圧

 劫火の心奥フレマ・コルの空間を、圧倒的な熱量が支配しつつありんす。


 特製戦闘装束の空調機構が稼働しているとはいえ、肺に吸い込む空気すらも喉を焼くほどに熱いのでありんす。


 けれど、シルビアの魔法の恩恵が、辛うじて肉体の機能維持を可能にしているのでありんす。


 ただ後方で守られるだけではなく、自らも最前線に立ち、こうしてアチキたちを支えながら、別の一体の雌獅子と真っ向から殴り合っているのでありんす。


 約千年の間、ここまで仲良くなった聖女はいんせんでしたが、特製の戦闘装束で激しく立ち回るその姿は、普段の純白の法衣を纏った淑女たる振る舞いからは想像もできんせんが、ひいき目でも何でもなく、間違いなく歴代聖女の中で最強でありんすよ。


 アチキは一体の雌獅子を相手にしながら、奥のアードル様の模倣体を見遣りんした。


 火の大聖霊の眷属であるアードル様の情報を模倣した高密度マナ体は、自身の身体をマグマ化させ、圧倒的な熱量で強化する状態変化の聖獣魔法を、まさに今、再現しようとしている途中でありんす。


 もし完全にマグマ化が完了してしまえば、一巻の終わりでありんす。


 そして、眼前に殺到してくる雌獅子の模倣体。


 魔法の行使という複雑なプロセスを完全に切り捨てた、純粋な物理的運動エネルギーによる暴力。それは、熱量による空間の制圧よりも、よほど直接的で厄介な脅威でありんす。


 アチキは極東オリガタ皇王国由来の刀を構え直し、静かに息を吐きんした。


 前衛では、ゲンマ魔法国国王グスタウス殿が、雌獅子の模倣体と正面から激突しておりんす。


 王の放つ圧倒的な炎が空間の酸素を強引に燃やし尽くしていくせいで、ただでさえ苦しい呼吸がさらに難しくなりつつありんすよ。まったく、無茶苦茶な王様でありんす。


 その過酷な戦場の中央で、一人の青年が淀みない挙動で雌獅子の猛攻を捌いているのが見えんす。


 レオ・クロース。


 彼の動きには、一切の無駄がありんせん。


 その洗練された挙動を見るたびに、アチキの脳裏には、遠い過去の光景が鮮明に蘇るのでありんす。






――木や紙、土の温もりが息づく屋敷。


 チビ猫たちの喧騒も、他の猫たちの穏やかな寝息も、すべてが心地よく空間に溶け込んでおりんした。


 オリガタの生まれであった主にとって、屋敷の内側に並ぶオリガタ色の造詣が深い製品は、ただ自然な日常の風景でありんした。


 そのころは猫であったアチキでありんすが、なぜかそれらの品々に妙に惹かれていたのでありんす。


 それが、現在のアチキのオリガタ文化への深い傾倒へと繋がっているのでありんすよ。


 それともう一つ。


 毎朝のルーティーンとして、主は裏庭で「カラテ」の型の修練をしておりんした。


 アチキは二階のバルコニーに寝そべりながら、その姿を飽きることなく見下ろしているのが好きでありんした。


 主の動きは、ただの武術の稽古には見えんせんでした。


 ただの猫であった当時は理屈など分かりんせんでしたが、理を解する聖猫となった今、改めて振り返れば分かるのでありんす。


 足の裏で地面の摩擦係数を正確に捉え、膝の抜きによって重力を推進力へと変換する。腰の回転と肩甲骨の連動が、拳の先端に至るまでの運動エネルギーを一切のロスなく伝達していく。


 それは魔法という外部エネルギーに頼らない、人体という閉鎖系における物理法則の完璧な最適化であったのだと。


 無駄な力みが一切なく、静から動へ、動から静へと瞬時に切り替わるその洗練された動きに、なぜか当時のアチキは強く惹かれたのでありんす。


 水の聖猫となった今思えば、それは、水という非圧縮性流体が、静かな水面から一転して圧倒的な質量と水圧の暴力へと変わる、水属性の法則にも通じる美しさがあったからかもしれんせん。


 だが、その穏やかな日々は、主の死を知り、唐突に終わりを告げんした。


 世界を救うための自己犠牲。


 星の崩壊を防ぐため、彼は自らの命を時空属性の結界魔法の対価として支払いんした。


 残されたアチキたちは、聖霊王ベル・ラシル様の手によって救われ、各大聖霊様の加護を与えられて人語を解する聖猫となりんした。


 アチキは水の大聖霊アイルヴィーズ様の加護を受け、マリノン海洋都市国を担当することになりんした。


 だが、聖猫になった当初の心境は、正直どうでもよかったのでありんす。


 主がいない世界に、どれほどの価値があるというのでありんしょう。


 ただ与えられた使命だからという理由だけで、適当に時間を過ごし、適当に職務に従事しんした。


 アチキが担当したマリノンの主、セイレーン族の女王ピア様も、アチキを無理に縛り付けることはせず、自由にさせてくれんした。


 千年の寿命を持つセイレーン族の彼女は、物事を高い視座から俯瞰する、達観した知性を持っておいででありんした。


 海流が常に一定ではないように、心もまた留まることはない。


 そう理解しているかのような、優雅で穏やかな距離感でありんした。


 彼女を新たな主と呼ぶには、アチキの中のショウという存在があまりにも大きすぎて無理でありんすが、良い友としてなら付き合っていけるだろう。そう思える程度には、居心地の良い関係が築けておりんした。


 そんな適当な時間が流れ、アチキが聖猫になってから約千年が経とうとしていたある日のことでありんす。


 水の大聖霊の眷属である巨大なワニ型の聖獣、グラシア様を通じて、一つの報せがもたらされんした。


 「真の主が蘇る」という話でありんした。


 正直に言えば、アチキは全く信じておりんせんでした。


 そんな奇跡のようなものがあるはずがありんせん。仮に戻ってくると訊いても、姿かたちが違うというではありんせんか。


 ベル様が固有魔法≪リーンカーネーション≫を用いたという話でありんしたが、魂の記憶が別人の肉体に帰還するなどという現象は、アチキにとってみれば信じるに足る物理的、魔導的な要素が何一つありんせんでした。


 所詮は、異なる器に過ぎない。


 そう冷ややかに分析しながらも、心の奥底では、一縷の望みをもって、アチキは箱庭へ来るというその人物を見に行きんした。


 だが、箱庭の裏庭で見たその人物は、やっぱり全然違っておりんした。


 銀髪に茶色の瞳。身長はそこそこありんすが、まだ幼さの残る、少年のような男でありんした。


 漂うマナの波長は時空属性特有の虹色を帯びてはおりんしたが、それだけでありんす。


 口には出さんせんでしたが、あの場にいたほとんどの猫たちは、アチキと同じ失望感を感じたことでありんしょう。


 その中でも、露骨に嫌悪感を持ったのは、光の聖猫であるクラルテでありんした。


 彼女は、かつての主への愛情が誰よりも深かったのでありんす。だからこそ、その期待が裏切られたことへの反発も、誰よりも強烈だったのでしょう。


 そして、そのクラルテがなんと、その少年のような青年に向かって攻撃を仕掛けたではありんせんか。


 なにをしているのだろう、とアチキは目を疑いんした。


 アチキはクラルテの……いや、大聖霊の加護を受けた聖猫の強さを、誰よりも正確に知っておりんす。


 純粋な身体能力だけでも、通常の人間のチャクラ器官が耐えられる限度を遥かに超えているのでありんす。


 大聖霊の加護を持たない、ただのヒュマーノ族の少年が受けてしまえば、一撃で肉体の構造が破壊され、致命傷を負うことは明白でありんす。


 勝負になんてなりもしないだろうと思った矢先。その青年は、クラルテの神速の拳を前にして、静かに構えたのでありんす。


 そう、「カラテ」の構えでありんした。


 足の裏で地面の摩擦係数を正確に捉え、膝の抜きによって重力を推進力へと変換する。腰の回転と肩甲骨の連動が、拳の先端に至るまでの運動エネルギーを一切のロスなく伝達していく。


 外部のマナに一切頼らない、人体という閉鎖系における物理法則の完璧な最適化。


 しかも、それはただの模倣ではありんせんでした。


 かつてアチキが二階のバルコニーから飽きることなく眺め続けていた、あの主と同等の極限に洗練されたものでありんした。


 クラルテの質量と速度を伴った拳に対し、青年はごく僅かな重心移動で軌道をずらし、手首を添えて円を描くように力を受け流しんした。


 衝突エネルギーを正面から受け止めるのではなく、ベクトルを逸らして無効化する。


 その完璧な物理演算に基づいた体術を目の当たりにした瞬間、アチキの心の中にあった疑念は、完全に消え去ったのでありんす。


 アチキは確信しんした。


 彼は――間違いなくかつての主「ショウ」なのだと。










 ――記憶の海から現実の戦場へと、アチキは意識を引き戻しんす。


 眼前では、アードル様の模倣体がさらに莫大な熱エネルギーを内包し、周囲の空間そのものを焼き尽くさんばかりの威圧感を放っておりんす。


 依然としてアチキへ向けて、一体の雌獅子が直線的な突進を仕掛けてきんした。


 だが、アチキの心に焦りはありんせん。


 視線の先で、レオもまた別の一体による死角からの強襲を、その完璧な「カラテ」の体術と時空属性の結界魔法を融合させて、的確に捌き続けているのでありんす。


 毎朝見ていたからこそ分かる、新たな主の手の運び、足の運び、体捌き。


 それがかつての主、ショウと寸分違わず重なるのでありんす。


 大聖霊の加護を持たぬヒトの身でありながら、聖獣と同等の相手にあの体捌きは異常でありんすよ。


 こうなっては、アチキも負けてはいられんせん。


 主の背中を護ること。それが、アチキの役目でありんす。


 まずは目の前の雌獅子でありんす。


 眼前に迫り来る雌獅子の熱量を肌で正確に算出しんす。


 この程度の〝熱量〟なら、これぐらいの質量でありんすね。


 アチキは第六位階聖霊水流拘束魔法≪スフィリア≫を行使し、圧倒的な質量を持った水球を雌獅子に施し、その狂暴な動きをすっぽりと封じ込めるのでありんす。


 時間が経てば、雌獅子を包む水球も爆発をおこすでしょうが、今は数秒の足止めでいいのでありんす。


 そして、抜き放たれたオリガタ刀を一度鞘に戻し、静かに居合の構えを取りんす。


 狙うは既にマグマ化が完了してしまっているアードル様の模倣体一つのみ。


 あの模倣体を消滅させることで、この水球内の憂いものうなりんしょう。


 主の前に立ち塞がる無粋な障害は、このアチキが綺麗に処理して差し上げましょう。


 「お覚悟、でありんす」


 アチキの唇が、起動キーを紡ぎんす。


 「固有魔法オリジン――」


 静かなる居合の構えに、極限まで圧縮された水属性マナが収束していきんす。


 その言葉と共に周囲の炎が揺らぎ、劫火の空間にまるで海淵の底に沈んだかのような、絶対的な静寂が戦場を包み込みんした。


 「≪海底二万哩オーバーフロー≫」


 神速の抜刀と共に放たれたのは、斬撃ではなく、静謐なる「崩壊」でありんす。


 アードル様の模倣体を取り囲む空間のマナが、一瞬にして現実の海洋深度を遥かに超える、三万二千キロメートル(二万哩)相当の極限環境へと引き上げられるのでありんす。


 ≪海底二万哩オーバーフロー≫の檻が、アードル様の模倣体をすっぽりと包み込みんす。


 水という非圧縮性流体が、逃げ場のない外圧を全方位から均等にアードル様の模倣体へと伝達しんす。


 それが、マグマ化による水蒸気爆発をも完全に抑え込む、圧倒的な深海の水圧なのでありんすよ。


 いかに絶大な熱量とマグマの質量を持とうとも、この均等な圧力の前では圧縮を助けるための壁にしかなりんせん。


 破壊音すら響かない深海の底のような静寂の中で、アードル様の模倣体の構成情報は原子レベルで「ゼロ」へと凝縮・圧壊されていきんした。


 チリ一つ残さず、最初から存在しなかったかのように押し潰してやりんしたよ。


 本体であるアードル様の模倣体が消滅したことで、足止めしていた雌獅子たちも霧散し、別の水蒸気爆発の憂いは消え去ったのでありんす。


 アチキは、超高圧の空間が霧散して莫大な排熱が白い湯気となって立ち上る中、カチリ、と小さな音を立てて刀を鞘に納めたのでありんす。

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