伝書鳩に劣る夫
「どうしよう…もうこれだけ…」
彩音は財布の中で小銭を掻き分け、中身の少なさに眉を潜めた。アルバイトの給料が入ったのは2週間前。にも関わらず彩音の財布の中には小銭しかなかった。スマホの銀行口座アプリで残高を見ても既に残りは2万円のみだ。これで残りの日数をどう過ごすか…それが今の最大の問題だ。
何故こんな事態になってしまっているのか…その原因が背後に立った。
「彩音〜。これ払っといてよ。新しいアイコス買ったからさぁ」
「は!?また買ったの!?こないだ買ったばっかりじゃん!」
彩音の夫・三信だ。媚び諂うように小首を傾げながら請求書を差し出してきた。
「壊れちまってさ。な?頼むよ」
30を過ぎた大の男が身体をくねらせながら甘えてくる様は彩音に不快感しか起こさない。
「払わない。返品して」
「もう使っちゃったから返品できないぴょんっ」
不快感通り越して殺意すら湧きながら彩音は請求書を引ったくった。
「ちゃんと相談してから買えっつってんでしょうがっ」
「ごめーんねっ。気付いたらもう買っちゃってた」
どうせ言ったところで聞きはしない…わかっているから彩音はそれ以上は喋らなかった。愛し合って結婚したはずの夫への信頼感は今や地の底だ。外面がよく穏やかそうに見える三信だが、実際はとんだ内弁慶で彩音に対してはかなりナメた態度を取る。今のように媚び諂ってきたかと思えば不機嫌になって物に当たったり時には刃物を取り出して脅してきたりするのだ。怒らせるとひと晩不機嫌になって面倒なので結局彩音は言うことを聞いてしまうことがほとんどだった。それが三信を調子付かせるだけだとわかってはいるのだが、最早本能のレベルでトラブル回避してしまう癖が彩音には付いてしまっている。
「まぁまっ」
「! 雅春、起きたの」
息子の雅春がよちよちと歩きながら彩音に抱っこをせがんできた。1歳になったばかりでまだまだ足取りも危なっかしい。しかしそんな姿が愛らしく、彩音の荒んだ気持ちも和ませてくれるのだ。乳児独特の細くふわふわな髪の毛を撫でてやり、抱き上げて擦り寄る。
「よしよし。朝ご飯にしようね」
離乳食をレンジで温め、お子様椅子に雅春を座らせるとテーブルを叩いて催促してきた。目を細め、一緒に手を合わせて「いただきます」をして口元まで運んでやれば可愛らしく口を開けてくる姿に癒しを感じる。
「なー。オレの飯は?」
ソファに横たわってスマホを弄りながら三信が声を投げてきた。せっかくの癒しに水を差され、睨み付ける。
「後に決まってるでしょ?私だってまだなんだから」
自分で作れ、という言葉は喉まで出かかったが面倒なことになりそうと考えて口を噤む。面倒なこととは勿論、不機嫌になって物に当たられることだ。
「ちっ…んだよ、腹減ってんのに」
どうやら気に食わなかったらしい。前は欲しいものを買って欲しい時だったらしく苦笑いしながら「じゃあ待つわ」と大人しくしていたのだが…この匙加減が難しいのだ。
「雅春、お腹いっぱい?じゃあ、ごちそうさまでしたっ」
「ちたっ」
手を持って合掌させ、きちんと挨拶を教え込む。待っていたように三信が立ち上がった。
「じゃあオレが保育園連れてってくるわっ」
「あっそ」
いつものことに冷たい返事しか出ない。保育士や他のママパパから「イクメン」と認められるのが気持ちいいらしく、保育園への送迎だけは積極的なのだ。家でおむつ替えやなんや子供のことはほとんどしないくせに、だ。
「行こうな〜、雅春っ」
「あいっ」
雅春は父親を慕っているようで、大人しく保育園に連れて行かれていく。泣く様子も母を恋しがる様子も微塵もない。寂しがってもらえないのは助かる反面、彩音の方が寂しく感じていた。
(雅春を片親にするのも気が引けるし…離婚したいって私の気持ちだけじゃ弱いよね)
なんだかんだと理由を付けて彩音は三信に離婚を切り出せずにいた。雅春を片親にすることに負い目を感じているのも確かだが、本心は離婚を切り出したことで三信がキレるのが怖い1択だった。
「はぁ…出勤の準備しよ」
アパレルのアルバイトをしている彩音。正社員になるべく働いていたが思わぬタイミングで妊娠したためまだしばらくはアルバイトのままだ。これもまた家計が困窮している要因でもある。妊娠前までは行政書士事務所の受付、そしてスナックとトリプルワークでなんとか稼いでいたが子供が出来てはそれも続けられず…三信の浪費癖は変わらず、収入が減ろうともコンビニ通いは止めず、サブスクは片っ端から契約、煙草や酒、ギャンブルは当たり前のように。勿論、彩音の財布から金を抜くことも忘れない。これで困窮しない方がおかしいだろう。三信がブラックリストに載っているゆえにスマホも家の賃貸契約も彩音名義。友人からは「そんな不良物件と何故結婚した?」と聞かれて今となっては「おっしゃる通りです」状態だ。
(よく聞く「彼には私がいないと…」状態だったんだよなぁ…今更ながら後悔…でも結婚してなきゃ雅春は生まれなかったし…複雑…)
悶々と考えていると背後でドアの開く音がした。鍵の開く音がしなかったことにイラッとする。
「鍵はかけてけって何回言ったらー…」
振り返ると、そこには雅春を抱いたままの三信が気まずげに立っていた。
「何?忘れ物?」
保育園はすぐ裏だ。恐らく通っている園児の中で1番近い。
「いやぁ…連れてったんだけどさ。昨日の夕方、熱が出てたから今日は預かれないって言われて…」
「…は?昨日、熱が出てた?聞いてないけど?」
「ごめん。言われたの忘れてたわ」
ごめんで済む話か…と思いながら頭痛を感じた彩音に三信が雅春を渡してきた。
「てなわけでよろしく。オレ、寝るから」
「は!?私、仕事なんだけど!?」
「オレは夜勤だから寝とかないとだろ?」
三信は逃げるように寝室へ引っ込んでいった。育児は彩音に丸投げで少しも見ようとはしない三信。たまに気が向いた時に甘い声で雅春を呼んでちょっと遊ぶ程度だ。彩音の友人が遊びに来た時は勿論常に抱っこして相手をしているフリをしている。
「…はぁ…仕方ない」
彩音は職場に欠勤の連絡を入れた。独身の上司からは「またですか」と溜息をつかれ、ひたすらに謝るしかなかった。
「今日はお休みしようねぇ」
「み?」
「そう、お休み」
リビングで雅春を玩具に囲ませ、自分の朝食にとヨーグルトを冷蔵庫から取り出す。ペリペリと剥がした蓋をゴミ箱に突っ込んで立ったまま食べ始めた。
家計が逼迫しているこの家の食費は恥ずかしながら9割方を彩音の実家に頼っている。毎週末のように徒歩5分の実家を訪ねては一緒に雅春を見てもらい、買い物で大量の食材を買ってもらっているのだが、三信は恥じるどころか完全にアテにしてしまっている状態だ。三信の実家は東北のだいぶ北寄りで遠く、なんと彩音は義両親にも会ったことがない。結婚の挨拶すらも三信が「いいよ、しなくて」と省いてしまった。これも今になって非常識さに呆れるし、それと同時にそれを良しとして何も言わない義実家にも不信感が募ってしまう。しかし、何よりも現状を打破できない自分自身に1番不信感を持ってしまう彩音であった。




