陽光
主人公 牧野 賢治
妻 牧野 志津
朝、賢治さんを送り出そうと玄関を開けた志津は、思わず「あら」と声を漏らした。
昨夜までの刺すような冷気はどこへやら、頬を撫でる風には、どこか湿り気を帯びた柔らかな温もりが混じっている。見上げれば、昨日までの鈍色の雲は綺麗に掃き清められ、透き通るような蒼天から、眩いばかりの陽光が降り注いでいた。
「賢治さん、今日は随分と暖かいですね」
「ああ、これなら日中は屋根の雪も解け出すだろう。足元に気をつけて」
賢治さんは少し目を細めて空を見やり、軽やかな足取りで銀行へ向かっていった。昨夜、闇の中を歩いてきた彼にとって、この日差しは何よりの労いに見えたかもしれない。
一人残された志津は、家の中に差し込む光の筋を見つめ、居ても立ってもいられなくなった。
「こんな日に、何もしないなんて勿体ないわ」
彼女は袖を捲り上げ、襷をきゅっと締め直した。まず着手したのは、奥の物入れに仕舞い込んでいた「来客用の寝具」だ。
えんぶりの時期になれば、お蘭さんはもちろん、遠方から親類や賢治さんの知人が立ち寄ることもある。厚手の真綿の布団は、冬の間にどうしても湿気を吸って重くなっている。志津はそれを一棹ずつ、精一杯の力を込めて縁側へと運び出した。
パン、パン、と布団を叩く音が、静かな住宅街に響き渡る。
陽光を浴びた布団からは、埃とともに、閉じ込められていた冬の匂いが弾け飛んでいく。代わりに吸い込まれていくのは、お日様の芳しい香りだ。軒先からは、解け始めた雪が「ぴちゃん、ぴちゃん」とリズムを刻みながら雫となって滴り落ち、氷の牙だった氷柱が、宝石のように光りながら小さくなっていく。
その光景を眺めているだけで、志津の心まで洗われていくようだった。
昼過ぎ、布団を裏返した志津は、夕餉の支度のために市場へと足を向けた。
街へ出ると、そこには春を待ちきれない人々の活気で溢れていた。えんぶり開幕まであと三日。市場の店先には、縁起物である鯛や、汁物に入れるための立派なごぼう、凍豆腐、そして色鮮やかな人参が山積みになっている。
「奥さん、今日はいい天気だね! えんぶり前の景気付けに、この立派な鱈はどうだい? 脂が乗ってるよ!」
威勢のいい魚屋の声に誘われ、志津はふと足を止めた。
(賢治さんも、最近は電燈の仕事で随分と根を詰めていらしたし……。精のつくものを、お腹いっぱい召し上がっていただきたいわ)
そう思うと、手が勝手に動いた。
鱈の切り身だけでなく、お蘭さんが好きだと言っていた豆菓子、さらには艶やかな黒豆、立派な根菜類。
「これも、それから……あちらもいただけますか?」
気がつけば、手に持った買い物籠はずっしりと重くなり、腕に食い込むほどの重量になっていた。
「あらあら、つい買いすぎてしまったわ」
志津は苦笑いしながら、重くなった籠を抱え直した。いつもの倍以上の買い物。けれど、重ければ重いほど、それを食べる誰かの笑顔が増えるような気がして、足取りはむしろ軽い。
帰り道、路地の向こうから子供たちが練習する笛の音が聞こえてきた。
賢治さんが昨夜聞いたのと同じ、春を呼ぶ調べ。
家に戻り、ふかふかに膨らんだ布団を取り込むと、部屋全体がお日様の熱で満たされていた。
志津は、取り込んだばかりの布団にそっと顔を埋めてみた。
温かく、懐かしい匂い。
この光の温もりが、今夜の食卓を通じて賢治さんへ、そして明日を生きる自分たちの力へと繋がっていく。
窓の外では、夕暮れ前の穏やかな光が、解け残った雪を優しく照らしていた。
買い物籠いっぱいの食材と、お日様を吸い込んだ布団。
ささやかだけれど確かな幸せが、牧野家の小さな居間に満ちていた。
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