意思
主人公 牧野 賢治
妻 牧野 志津
朝、玄関の引き戸を開けようとした賢治は、そのあまりの重さに眉を寄せた。昨夜からの「しばれ」で、戸の隙間の水分が凍りつき、家全体が巨大な氷の塊に閉じ込められたかのようだった。肩で強く押し開けると、「バリバリ」と氷が砕ける鋭い音が静寂を切り裂いた。
見上げた空は、一昨日の紀元節の蒼天が嘘のように、重く、厚い鈍色に塗り潰されている。雪を孕んだ雲が低く垂れ込め、街全体から色彩を奪い去っていた。吐き出す息は瞬時に白く凍り、眼鏡の端を曇らせる。
「……今日は一段と厳しいな」
賢治は外套の襟を立て、雪を踏みしめて歩き出した。
銀行へ向かう道すがら、街の空気は奇妙な二面性を孕んでいた。表通りは寒さに震え、人々は首をすくめて足早に通り過ぎるが、路地裏からは時折、乾燥した木と木がぶつかり合うような「カカカッ」という乾いた音が響いてくる。えんぶり組が本番を控え、最終的な「摺り(すり)」の確認をしているのだ。その音は、まるで凍りついた大地の下で、春を待つ命が必死に鼓動を打っているようにも聞こえた。
銀行に到着すると、祝日明けの反動で窓口は朝から殺気立っていた。取引先との商談、手形の決済、そして何より、自身の電燈事業に関する事務手続き。賢治の机の上には書類が山積みになっていた。ペンを走らせる指先が、冷えで思うように動かない。彼は時折、懐に忍ばせた手を温めながら、電柱の設置場所を記した図面に目を落とした。
「この暗闇を、この寒さを、私の引く光が少しでも和らげることができれば……」
昼食の時間も惜しんで仕事に没頭する賢治の脳裏に、ふと昨日の朝、志津が淹れてくれた熱い茶の味が蘇った。彼女の指先もまた、水仕事で赤く染まっていた。あの小さな家の中で、彼女が守ってくれている「温もり」があるからこそ、自分は外の「冷酷な現実」と戦えるのだという実感が、疲れた心に染み渡る。
夕刻、ようやく銀行を出た頃、街はすでに夜の帳に包まれていた。
八戸の目抜き通りには、いくつかの電燈が灯り、雪道をぼんやりと橙色に縁取っている。その明かりの届く範囲では、家路を急ぐ人々が安堵の吐息を漏らしているのが見えた。しかし、そこから一本横道へ逸れれば、事情は一変する。
賢治は、あえて計画路線の予定地を辿るように歩を進めた。
大通りを外れた途端、文明の恩恵はぷつりと途絶え、そこには文字通り一寸先も見えない深い闇が横たわっていた。足下の雪の起伏すら判別できず、凍土から這い上がってくる冷気が足首を掴み、容赦なく体温を奪っていく。
賢治は足を止め、その暗がりの先に目を凝らした。
今、足元を辛うじて照らしているのは、遠くの街灯の反射か、あるいは家々の隙間から漏れるかすかな灯油の明かりに過ぎない。しかし、彼の頭の中にある「光の地図」が実現すれば、この漆黒の通りにも力強い輝きがもたらされる。闇に怯えて歩く子供も、夜遅くに働く職人も、誰もが安心して顔を上げられるようになるのだ。
闇の中で目を閉じると、そこに煌々と輝く電燈の光が見えるような気がした。えんぶりの烏帽子を鮮やかに照らし出し、凍てつく冬の夜を春の予感で満たす光。それは単なる物理的な明るさではなく、人々の心にある不安を払拭する「希望」という名の光だ。
どこからか、また笛の音が聞こえてきた。
厳寒の冬を押し返し、豊作を祈る「えんぶり」の旋律。
賢治は深く息を吸い込み、冷たい空気を肺いっぱいに満たした。
「……負けてはいられないな」
独りごちた彼の声は、風にさらわれて消えたが、その瞳には強い意志の光が宿っていた。
家に着くと、窓から漏れる微かな光が見えた。志津が待っている。
賢治は雪を払い、再び凍りつき始めた引き戸に手をかけた。
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