友
主人公 牧野 賢治
妻 牧野 志津
娼館の女 お蘭
昨日の紀元節の晴天が嘘のように、空には淡い雪雲が広がり、八戸の街はいつもの忙しない日常へと引き戻されていた。
賢治さんは今朝、少し引き締まった顔で「行ってくるよ」と銀行へ向かった。祝日の静寂を脱ぎ捨て、再び「光の地図」を描くための戦場へと戻っていく彼の背中は、昨日よりも一回り大きく、頼もしく見えた。
賢治さんを送り出し、掃除と洗濯を早々に済ませた志津は、台所で少しだけ浮き立つ心を押さえていた。
今日は、お蘭さんが遊びに来てくれる日だ。
志津は、冷暗所に大切に保管しておいた「しとぎ」を取り出した。一晩経って、生地はよりしっとりと落ち着き、豆の甘やかな香りが凝縮されている。それを丁寧に切り分け、炭が赤々とおこった火鉢の網に乗せた。
「……いい香り」
じりじりと焼ける音とともに、香ばしい匂いが茶の間に広がる。表面がぷっくりと膨らみ、わずかに焦げ目がついた頃、玄関のほうで「ごめんください!」という、春の風のような明るい声が響いた。
「志津さーん! 遊びに来ちゃったわよ」
お蘭さんだ。彼女は寒さに赤くなった頬を綻ばせ、風呂敷包みを抱えて賑やかに入ってきた。
「あら、いい匂い! 何を焼いているの?」
「お蘭さん、いらっしゃい。ちょうど焼き上がったところよ。昨日の残りだけれど……しとぎを作ってみたの」
志津が茶を淹れ、焼きたてのしとぎを皿に盛って差し出すと、お蘭さんは目を丸くした。
「まあ、志津さんがしとぎを? 銀行員の奥様が、そんな古風な手仕事をなさるなんて意外だわ。でも、この匂い……たまらないわね」
お蘭さんは行儀よく、しかし待ちきれないといった様子でしとぎを一口齧った。
「……! 美味しい! 志津さん、これ、豆の味がすごく濃いわ。それにこの食感、まるでお餅と落雁のいいとこ取りみたい。賢治さん、喜んだでしょう?」
「ええ、とても。二人で昨日の夜にいただいたの」
志津が少し照れながら答えると、お蘭さんは「ふふん」と意味ありげに笑った。
「仲直りの味、ってわけね。よかったわ、志津さんの顔が昨日よりずっと柔らかいもの」
お蘭さんは、持ってきてくれた包みを開いた。中からは、街の和菓子屋で買ってきたという色鮮やかな練り切りが出てきた。
「これは私からのお土産。でも、今日の主役はこの『しとぎ』に決まりね」
二人は熱い茶を啜りながら、とりとめのない話に花を咲かせた。
えんぶりの組がどこで練習をしているだの、最近の反物の流行りだの……。賢治さんといる時の静謐な時間とは違う、弾けるような言葉のやり取り。
志津は、お蘭さんの屈託のない笑い声を聞きながら、自分が作ったものを「美味しい」と言って食べてくれる友がいる幸せを噛み締めていた。
「ねえ、志津さん。賢治さんの電燈のお仕事、街でも噂になっているわよ。みんな、夜が明るくなるのを半分は不思議がり、半分は待ち望んでいるの。あなたの焼くこのしとぎみたいに、みんなを温かく元気にする光になるといいわね」
お蘭さんの言葉に、志津は深く頷いた。
自分の手仕事は、家の中を整え、夫を支える小さなものに過ぎない。けれど、このしとぎの熱が、お蘭さんの笑顔を引き出したように、賢治さんの仕事もまた、誰かの笑顔に繋がっているのだと確信できた。
窓の外では、また細かな雪が舞い始めていた。
しかし、火鉢を囲む二人の間には、冬の寒さを忘れさせるような、穏やかで誇らしい「残り福」の時間が流れていた。
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