紀元節
主人公 牧野 賢治
妻 牧野 志津
二月一一日、火曜日。
起床した瞬間の肌感覚で、今日が特別な一日であることを悟った。
枕元の隙間から差し込む光は、雪の結晶を透過したように鋭く、清冽だ。布団から出ると、部屋の空気はしんとして重く、肺の奥まで凍りつくような冷気が支配している。しかし、その冷たさは決して不快ではない。一週間の始まりを告げる月曜日の重圧とは違う、背筋が伸びるような祝日の朝の静寂だった。
賢治はまず、冷えた板の間の感触を足裏に感じながら玄関へ向かった。
戸を開けると、昨日に引き続き雲一つない蒼天が視界いっぱいに広がり、雪に反射した陽光が目に痛いほど眩しい。彼は蔵から出しておいた二本の国旗、日の丸を手に取った。
凍てつく空気の中で旗竿を組み、交叉させて固定する。
「よし……」
指先の感覚が失われるほどの寒さだったが、門口に掲げられた日の丸が、乾いた北風を受けて「パタパタ」と力強く翻る音を聞くと、誇らしいような、身の引き締まるような心地になった。この赤い丸は、雪に閉ざされた八戸の街に灯る、最初の情熱のようにも見えた。白地に鮮やかな赤が、抜けるような青空に吸い込まれていく様を、賢治はしばらくの間、息を白く弾ませながら見上げていた。
部屋に戻ると、廊下の向こうから志津の立ち働く音が聞こえてきた。
朝食の膳には、炊きたての米の香りと、味噌汁の湯気が満ちている。昨夜、共に味わった「しとぎ」の香ばしい余韻が、志津の丁寧な所作の一つひとつに重なって感じられた。
「賢治さん、旗をありがとうございます。指先が冷えたでしょう」
志津が差し出す熱い茶を啜る。喉を通り、胃に落ちる熱が、ようやく身体を芯から解きほぐしていく。志津が茶碗を置く指先も、水仕事で少し赤らんでいた。その手こそが、昨日のあの「しとぎ」を、一粒一粒丁寧に潰して作り上げたのだと思うと、賢治は言いようのない愛おしさを覚えた。
食後、賢治は届いたばかりの新聞を広げた。
祝日のため、紙面には紀元節を祝う記事が大きく躍っている。式典の予定や、えんぶりを控えた若者たちの意気込みを伝える活字を、彼はいつも以上に時間をかけて、一行ずつ丁寧に追いかけた。
普段の銀行員としての読み方とは違う。数字や利害ではなく、この街に生きる人々の「呼吸」を読み取るような時間。新聞の広告欄には、この日の祝賀に合わせて売り出された反物や、食堂の献立が並んでいる。活字の向こう側に、日の丸の下で肩を寄せ合い、寒さを凌ぎながらも懸命に楽しみを見つけようとする八戸の人々の暮らしが透けて見えた。
新聞を捲るカサリという音が、静かな居間に響く。志津は傍らで、昨日のしとぎの残りを整理したり、午後からの支度をしているのか、衣擦れのような柔らかな音を立てている。
外からは、時折、風に乗って遠くのえんぶり組が鳴らす「摺り(すり)」の音が微かに聞こえてくる。笛の鋭い音色と、鐘の乾いた響き。それは、厳寒の冬を押し返そうとする土着の祈りのようだった。
紀元節の祝賀と、祭りの予感。そして家の中に流れる、穏やかな静寂。
賢治は新聞をゆっくりと畳み、膝の上に置いた。
昨夜のしとぎの味が、まだ胸の奥を温めているような気がした。仕事に追い立てられるのではなく、ただ志津と同じ空間で、同じ空気を吸っているという実感が、何よりの贅沢に思える。
ふと顔を上げると、障子越しの光が部屋の中を白く、明るく満たしていた。
賢治は隣で控えめに座っていた志津を見やり、優しく声をかけた。
「志津。今日は紀元節で、銀行も休みだ。外は賑やかだが、家の中はこんなにも穏やかだ。……さて、午後は何をしようかな。君とゆっくり過ごすのもいいし、どこか歩きたいところはあるかい?」
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