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月待ちの灯(あかり)  作者: しゅう


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挽回

主人公 牧野 賢治

妻 牧野 志津

日曜日。

目覚めると、枕元の空気が刺すように冷たかった。

賢治が寝返りを打つと、隣の寝床はすでに畳まれ、冷え切っている。薄暗い部屋の窓硝子には、びっしりと「氷の花」が咲いていた。外気との温度差で生まれたその繊細な模様が、今朝の志津との距離を象徴しているようで、賢治は胸の奥を小さく突かれたような痛みを感じた。

(……やってしまった)

昨夜、台所の奥へと消えた志津の背中を思い出し、賢治は重い溜息をついた。

銀行員として数字や計画には強い自負があるが、妻の心という、最も大切にすべき事の機微には、自分はどうしてこうも無頓着なのだろうか。

のそりと起き上がり、茶の間に向かうと、そこにはすでに掃除を終え、火鉢の番をする志津の姿があった。

「……おはよう、志津」

「おはようございます。お着替え、あちらに用意してありますわ」

返ってきたのは、淀みのない、しかしどこか余所余所しい挨拶だった。目線は手元の火箸に向けられたままだ。いつもなら、賢治が起きればすぐに温かい茶を淹れてくれる彼女だが、今朝は鉄瓶がシュンシュンと鳴る音だけが、二人の間の沈黙を埋めていた。

賢治は、銀行の融資相談でも見せないような真剣な面持ちで、志津の横顔を盗み見た。

(どうすれば、昨日の過ちを拭えるだろうか)

言葉で「悪かった」と言うのは簡単だ。だが、志津が傷ついたのは、蕎麦を食べてきたことそのものではなく、彼女が自分を思って費やした「時間」と「心」を、自分が土足で踏みにじってしまったことにあるのだと、賢治は昨夜の八日月を見上げながらようやく悟っていた。

外からは、雪を蹴立てて歩く足音と、遠くから「トントン、カラリン」とえんぶりの練習に励む笛や太鼓の音が聞こえてくる。二月十七日の本番に向け、街全体が浮き立っている。

「……志津、少し外へ出ないか」

賢治の言葉に、志津がようやく顔を上げた。

「外へ、ですか? 雪がまた降り始めておりますけれど」

「ああ。えんぶりの習いも熱を帯びているし……それに、昨日の蕎麦のお詫びをさせてほしいんだ。湊の方まで行けば、何か君の好きな甘いものでも買えるかもしれない」

志津は少しの間、賢治を見つめていた。その瞳には、まだ昨日の寂しさが影を落としているように見えたが、賢治の必死な、それでいて不器用な誘いに、わずかに唇を綻ばせた。

「……お詫びだなんて。でも、せっかくの日曜日ですから、お供させていただきますわ」

二人は厚手の外套を纏い、雪の舞う八戸の街へと繰り出した。


三日町の通りは、えんぶりの装束を整える職人や、稽古場に向かう若者たちで活気づいている。冷たい風が頬を打つが、隣を歩く志津の体温が、賢治には何よりも心強かった。

賢治は意識して、雪道で滑りやすい角に来るたび、志津の腕をそっと支えた。昨日の「独りの帰り道」を、志津がどんな思いで歩いたかを想像すると、その手に自然と力がこもる。

「志津、あそこに寄ろう」

賢治が指差したのは、馴染みの菓子屋だった。

「ここの鶴子まんじゅうは、皮が香ばしくて美味しいだろう? それと……今日はお事汁の残りがあるなら、私が温め直すのを手伝わせてもらえないか。君一人の手料理に甘えてばかりではいけないと、昨夜痛感したんだ」

志津は、賢治が差し出した包みを受け取り、その温もりに触れた。

「賢治さんが台所に……? それは、床が抜けてしまうかもしれませんわ」

志津がようやく、クスクスと声を立てて笑った。その笑い声は、今朝見た窓の氷の花を、春の陽光のように一瞬で溶かしていった。

「悪かったよ、志津。君が待っていてくれることを、当たり前だと思ってはいけなかった」

賢治の真っ直ぐな謝罪に、志津は小さく首を振った。

「いいえ。私も……少し、意地悪を言い過ぎました。昨日のお事汁、煮詰まってしまって少し味が濃くなっておりますけれど、よろしいですか?」

「ああ、それがいいんだ。何よりのご馳走だよ」

帰り道、空には厚い雲の切れ間から、昼間の淡い月が見え隠れしていた。

夜になれば、昨日よりもさらに膨らんだ九日月が、この街を照らすだろう。

賢治は、志津の肩にそっと手を添えながら、再び確かな足取りで家路についた。

光の地図を描くことも大切だが、まずはこの隣にいる一人の女性の心を、温かな光で満たし続けること。

読んでいただきありがとうございます。

下の★~★★★★★で評価してもらえると勉強になります。

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