待ちぼうけ
主人公 牧野 賢治
妻 牧野 志津
「今朝は一段と冷え込みますね……」
志津は吐く息の白さに身を縮めながら、台所の水盤に張った薄氷を指先で割った。
今日は二月八日、事八日。一年の無病息災を願い、農事の節目とする大切な日だ。八戸の厳しい冬にあって、この日はまた、針仕事を休んで道具を労わる「針供養」の日でもあった。
志津は朝一番に、古くなって折れた数本の針を、真っ白な豆腐の芯へと優しく刺した。
「いつも、賢治さんの着物を守ってくれてありがとう」
そっと手を合わせる。いつもなら、この後すぐに賢治の股引の綻びを直したり、シャツのボタンを付け替えたりするのだが、今日ばかりは針箱を閉じ、代わりに大きな鍋を火にかけた。
里芋、大根、ごぼう、そして魔除けの赤を象徴する小豆。たっぷりの具材を煮込んだ「お事汁」の湯気が、冷え切った台所に温かな匂いを広げていく。
「今日は半ドンだから、お昼過ぎには戻るよ。一緒に温かいものを食べよう」
出勤際、玄関先で賢治が残したその言葉が、志津の心を弾ませていた。
最高気温でも零度を下回るような鉛色の空。時折、風に舞う粉雪が障子を叩く。けれど、家の中にはコトコトと鳴る鍋の音と、賢治を待つ志津の期待が満ちていた。
彼女はお事汁だけでなく、賢治の好物である鰊の甘露煮を小皿に盛り、彼が帰ってきたらすぐに温め直せるよう、火鉢の炭を贅沢に継ぎ足した。
正午を知らせる街の鐘が鳴った。
志津は羽織を重ね、玄関の戸を少しだけ開けて外を窺った。銀行から家までは、それほど距離はない。もうそろそろ、雪を踏みしめる独特の規則正しい足音が聞こえてくるはずだ。
しかし、通りには近所の子どもが走る影があるだけで、夫の姿は見えない。
(お仕事が長引いているのかしら…)
昨夜、賢治が熱心に語っていた「光の地図」のことを思い出す。大きな理想に向かう夫を支えるのが自分の役目だ。志津は自分に言い聞かせ、冷え始めた手を火鉢で温め直した。
一時が過ぎ、二時が近づく。
あんなに勢いよく上がっていたお事汁の湯気も、今は静まり返っている。何度も温め直したせいで、大根の色はすっかり濃くなり、汁も少し煮詰まってしまった。
志津は、一人きりの沈黙が支配する居間で、柱時計のカチコチという音だけを聞いていた。
期待が少しずつ不安に変わり、それがやがて、しんしんと降り積もる雪のような、寂しさを孕んだ「苛立ち」へと変わっていく。
(……お腹が、空いてしまいましたわ)
お昼をとうに過ぎ、志津の空腹は限界に達していた。何より、心を込めて整えた食卓が、刻一刻と「鮮度」を失っていくのが悲しかった。
二時半。志津はついに、一人でお事汁を茶碗によそった。
「いただきます……」
一人で啜る汁は、あれほど時間をかけたのに、どこか味気なかった。
その時だった。
「ただいま! 志津、今帰ったよ。いやあ、今日は一段と冷えるね」
玄関から、あまりにも晴れやかで、あまりにも無頓着な声が響いた。
慌てて箸を置き、出迎えた志津の目に飛び込んできたのは、冷気で鼻の先を赤くしながらも、満足げに笑う賢治の姿だった。
「おかえりなさいませ。随分と、遅かったのですね。お事汁、温め直しますから……」
志津が努めて穏やかに言いかけたのを、賢治が軽やかに遮った。
「ああ、それには及ばないよ。実は帰り際、同僚の安藤君にどうしてもと誘われてね。湊の方の蕎麦屋で、温かい天ぷら蕎麦を食べてきたんだ。いや、おかげで腹の底から温まったよ」
賢治は雪を払いながら、自身の幸運を分かち合うように語り続ける。
「志津も、お昼は済ませたんだろう? 悪かったね、少し遅くなってしまって」
志津の動きが、ぴたりと止まった。
彼女の視界には、居間に並んだままの鰊の小皿と、まだ湯気を立てている自分一人分の茶碗が入っている。
「ええ……。私も、今しがた済ませたところですわ。お蕎麦、美味しかったのでしょうね」
志津の声は、自分でも驚くほど低く、冷ややかだった。
「志津?」
「……事八日の今日は、家で静かにお事汁をいただくものだと、お母様に教わりましたけれど。お外でのお食事は、さぞかし賑やかでよろしゅうございましたね」
志津は賢治と目を合わせることなく、台所へと盆を運んでいく。
「あ、いや、志津、それは……」
賢治がようやく、家の中に漂う濃密な「お事汁の匂い」と、準備されていた形跡に気づいたようだったが、時すでに遅し。
「夜のお食事も、お外で召し上がってこられたらよろしいのに」
そう言い残して、志津は台所の奥へと消えた。
残された賢治は、眼鏡を曇らせたまま、一人居間で立ち尽くすしかなかった。外はいつの間にか雪が止み、雲の切れ間から、昨日よりも少し膨らんだ八日月が、気まずい沈黙の流れる牧野家を冷たく照らし始めていた。
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