青写真
主人公 牧野 賢治
妻 牧野 志津
八戸銀行の執務室に、昼下がりの柔らかな陽光が差し込んでいた。
賢治は、午前中の融資相談をすべて終え、ようやく自分の机に向かっていた。山のように積まれていた帳簿や書類は、ここ数日の彼の奮闘によって見事に整理され、机の上には清々しい「余白」が生まれている。
賢治はその空白の羊皮紙のような空間に、一本の鉛筆を走らせた。
それは銀行の業務記録ではなく、彼が心の中に描き続けてきた、八戸の街の「光の地図」だった。
(志津が、あの夜怯えて走った三日町の角……あそこには、少なくとも十六燭光の電燈が必要だ。そして、お蘭さんたちが働く裏通りの入り口にも……)
鉛筆の先が、八戸の地図の上を点々と跳ねる。それは単なる事業計画の数字ではない。一人ひとりの「命の安全」を繋ぎ合わせるための、光の星座を描く作業だった。
しかし、同時に賢治が向き合っているのは、電燈会社設立に向けた莫大な見積書という冷徹な現実でもある。輸入に頼る発電機の価格、銅線の敷設費用、そして石炭の騰貴。並べられた数字はどれも、一介の銀行員が扱うには重すぎるものばかりだった。
「……理想だけでは、街に火は灯せないか」
万年筆のインクが、吸い取り紙にじわりと滲む。その黒い染みが、まるで今の八戸を包む闇のように見え、賢治は思わず唇を噛んだ。
今朝、新聞の片隅には、スペイン風邪による死者の数が依然として減らない不穏な記事が載っていた。外の世界では、普選運動の熱風が吹き荒れ、人々は権利を求めて叫んでいる。
「権利か……。だが、夜道を安心して歩く権利こそ、何よりも先に保証されるべきではないのか」
賢治は独り言を漏らし、眼鏡の縁を指で押し上げた。
銀行員として、彼は投資の回収率や電力需要の予測を冷静に計算する。しかし、その冷徹な数字の裏側には、常に志津の震える肩を抱き寄せた、あの夜の手の感触があった。
「牧野さん、少しよろしいですか?」
同僚の行員が声をかけてきた。手には、地元の商人からの借入申込書がある。
「ええ。ああ、これは……えんぶりの準備資金ですね」
「はい。不景気だ、風邪だと言いながらも、やはり八戸の人間は、えんぶりの音が聞こえてくると財布の紐が緩むようで」
同僚は苦笑いしたが、賢治はそれを見て、ある確信を深めた。
祭りのための贅沢な出費は、この過酷な冬を生き抜くための、民衆のささやかな抵抗なのだ。ならば、その場限りの祭りの灯ではなく、一年三百六十五日、絶えることのない「文明の灯」をこの街に定着させることこそ、銀行員としての、そして一人の男としての、自分の使命ではないか。
午後五時過ぎ。銀行の業務を終え、表に出ると、空には昨日よりも心持ちふっくらとした「上弦の月」が浮かんでいた。
まだ電燈の少ない三日町には、この月明かりさえ貴重な光源だ。雪に反射した青白い光が、帰路につく人々の肩を頼りなく照らしている。
右半分を力強く輝かせたその月は、まるで弓を引き絞ったかのような鋭さと美しさを備えている。
「……今夜は、十時半まで月が残るな」
賢治は、ポケットから小さな手帳を取り出し、月の入り時刻を書き留めた。電燈が普及するまでの間、この月の満ち欠けこそが人々の唯一の道標だ。
(月が沈んだ後も、消えない光を。私が必ず、志津の足元に届けてみせる)
銀行を一歩出れば、そこは雪国特有の湿った冷気が支配する世界だ。家々の屋根から滑り落ちる雪の重い音や、馬そりが通り過ぎる鈴の音が、暮れなずむ街に響いている。
どこかの竈から漂う、炭を焼く匂いと夕餉の支度の香りが、賢治の鼻腔をくすぐった。その生活の気配こそが、彼が守るべき「八戸の体温」だった。
家路を急ぐ賢治の耳に、またどこかから「トントン、カラリン」とえんぶりの練習の音が聞こえてきた。
その音は、まるで新しい時代の足音のように、賢治の胸を高鳴らせる。
玄関を開ければ、そこには志津が灯した温かな「家の中の光」が待っているはずだ。
賢治は上弦の月を見上げ、一つ大きく頷くと、確かな足取りで雪道を一歩、また一歩と踏みしめていった。
それは、八戸の闇を切り裂く、新しい光への行進であった。
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