新聞
主人公 牧野 賢治
妻 牧野 志津
朝の光が、雪に反射して茶の間の障子を真っ白に染め上げていた。
志津は、賢治を送り出した後の静かな台所で、丁寧に使い込まれた薬缶を火にかけていた。シュンシュンという景気の良い音を聞きながら、彼女は今朝の「新聞」を広げる。
新聞の一面には、東京での普通選挙を求める大演説会の様子が勇ましく躍っていた。
「世の中は、ずいぶんと騒がしくなってまいりましたね……」
志津は独り言をこぼしながら、黒いインクの文字をなぞる。昨夜、賢治が語ってくれた「闇を消す」という誓い。それは、新聞が書き立てる難しい政治の理屈よりもずっと、志津の心には深く、切実に響いていた。夫が見つめているのは、大きな「世界」ではなく、この街で暮らす「私」という小さな存在なのだ。そう思うと、冬の寒さに縮こまっていた胸の奥が、火鉢の炭のようにじんわりと熱を帯びるのを感じた。
午前中の買い物に出る際、志津は丁寧に「覆面」を鼻先まで覆った。
世界中で猛威を振るう「スペイン風邪」は、この北国八戸でも多くの人々の命を脅かしている。銀行員として多くの人と接する賢治に、もしものことがあってはならない。志津にとって、手洗いやうがいの励行、そして部屋の湿度を保つために火鉢の上の鉄瓶を絶やさないことは、愛する夫を「闇」から守るための、彼女なりの戦いであった。
「賢治さんが街に光を灯してくださるのなら、私はこの家の中の光を絶やさないようにいたしましょう」
籠を手に外へ出ると、刺すような冷気さえ、どこか清々しく感じられた。
表通りに出ると、どこからか「トントン、カラリン」という、乾いた笛と太鼓の音が風に乗って聞こえてきた。
今月十七日から始まる「八戸えんぶり」の練習の音だ。
厳しい冬の終わりと、豊かな実りを神に祈るその音色は、雪に閉ざされた八戸の人々にとって、春を呼び込む合図でもある。
「もうすぐ、えんぶりですね。今年こそは良い年になりますように」
道すがら、近所の主婦と「覆面」越しに目を細めて挨拶を交わす。昨夜の煮こごりの大根が美味しかったこと、えんぶりの門付けが来るのが楽しみなこと。そんな他愛のない会話が、志津の心を軽やかに跳ねさせた。
夕暮れ時、賢治が帰宅するのを待ちわびるように、志津は玄関先に打ち水ならぬ「雪かき」をして、小さな道を整えた。
空を見上げると、西の低い空に、繊細な銀の細工のような月が掛かっている。
満月にはまだ遠く、夜十時には沈んでしまう控えめな月だが、その柔らかな光は、凍てついた街を優しく包み込んでいるようだった。
「あら、今夜はあんなに綺麗な月が……」
志津は、自分の提灯の火を一度消し、その月明かりだけで玄関までの数歩を歩いてみた。
一月のあの夜、あれほど恐ろしかった闇。けれど今は、賢治が帰ってくる「足音」を待つ楽しみがある。
「ただいま、志津。今夜も冷えるね」
玄関の戸が開く。そこには、丸眼鏡を曇らせて、少し照れくさそうに笑う賢治の姿があった。
「おかえりなさいませ、賢治さん。今、とっても綺麗な月が見えるのですよ」
志津は賢治の背中にそっと手を添え、二人で西の空を仰いだ。
外の世界がどれほど騒がしくとも、目に見えない病が流行ろうとも、この「月待ち」のひとときがある限り、自分たちは大丈夫だ。志津は心からそう信じていた。
温かな味噌汁の湯気と、火鉢のパチパチという音。そして、お互いを思いやる静かな言葉。
牧野家の夜は、銀色の弓のような月に見守られながら、穏やかに更けていった。
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