大安
主人公 牧野 賢治
妻 牧野 志津
二月の八戸は、底冷えのする朝を迎えていた。暦の上では「大安」という佳き日であったが、街を包む空気は刺すように鋭く、夜の間に音もなく降り積もった新雪が、街の喧騒をすべて深い底へと吸い込んでいた。人々の動きはどこか緩慢で、通りを往く馬そりの鈴の音さえ、凍てついた空気に低く籠もって聞こえる。家々の屋根からはつららが鋭く伸び、時折、重みに耐えかねた雪がドサリと落ちる音だけが、静寂を破っていた。
午前六時。牧野家の茶の間では、妻の志津が火鉢の炭を熾していた。爆ぜる炭の小さな音と、鉄瓶がシュンシュンと鳴り始める湿った音が、静かな家の中に朝の訪れを告げる。
「おはようございます、賢治さん。今朝も冷え込みますね。水仕事をする指先まで凍えてしまいそうです」
志津が吐き出す息は白く、火鉢の熱がようやく部屋の隅へと届き始めたところだった。
「ああ、志津。今朝は一段と空気が引き締まっているようだ。窓の霜柱が、いつもより鋭く、美しく見えるよ」
賢治は使い込まれた丸眼鏡を丁寧に拭きながら、身支度を整える。志津が用意した温かな味噌汁からは、立ち上る湯気と共に大根の甘い香りが漂い、凍えた身体を芯から解きほぐしていくようだった。急ぎ立てられることのない、穏やかで濃密な、大正の朝のひとときであった。
職場である銀行に到着しても、予想通り客影はまばらであった。
大理石の床が冷たく光り、高い天井の行内には、ただ振り子時計が刻む規則正しい音と、大型のストーブが時折パチリと爆ぜる音だけが響いている。一月の正月景気の熱狂が嘘のように、窓口には静寂が漂っていた。二月は「二八」の言葉通り、商売が冷え込む時期である。さらにこれほどの雪となれば、融資の相談に来る血気盛んな商人も、今日ばかりは足が向かないのだろう。同僚たちも、手持ち無沙汰に万年筆を弄り、手元の白紙を眺めては、窓の外の灰色の空を仰いでいた。
「今日は静かだな……。よし、今が好機だ」
賢治は丸眼鏡を指で押し上げると、机の隅に山積みになっていた書類の束に手を伸ばした。大戦景気の余波で押し寄せた多忙な日々の陰で、整理が後回しにされていた過去の帳簿や、未処理の伝票の山。それは賢治にとって、いつか片付けねばならない「心のしこり」のようなものであった。
カリカリ、とインクが紙を走る音。それが賢治の周りにだけ、心地よい仕事のリズムを作り出す。
普段の賢治は、融資の折衝において相手の顔色を伺い、言葉の裏に隠された計算を読み取ることに神経をすり減らしている。しかし今日は違った。ただ、数字という嘘のない事実、一点の誤魔化しも許さない冷徹な記録と一対一で対話していた。複雑に絡み合っていた未処理の数字が、賢治の正確な筆致によって整然と紐解かれ、あるべき場所へと収まっていく。その過程は、まるで荒れ果てた庭を一つずつ手入れし、美しい風景を取り戻していく作業に似ていた。
午後三時を回る頃には、あんなに高くそびえていた書類の山がすっかり消え去っていた。木目の美しい机の上には、広々とした清々しい「余白」が生まれている。
溜まっていた仕事がすべて片付いたことで、賢治の心の中には一点の曇りもない達成感が広がっていた。それは、銀行員としての矜持を再確認する瞬間でもあった。
「お先に失礼します」
賢治は、いつになく軽やかで張りのある声で同僚に告げると、まだ空に藍色が残る時間に銀行を後にした。夕暮れの街は、街灯が灯り始め、雪の色を幻想的な紫に変えていた。
牧野家の玄関の引き戸を開けると、志津が驚いた顔で出迎えた。
「おや、賢治さん! お早いお帰りですね。何か急な御用でもございましたか?」
「いや、今日は銀行も凪のようでね。溜まっていた仕事をすべて片付けてきたよ。おかげで、背中の荷物を下ろしたような気分だ」
賢治の声には、日々の激務で刻まれた険しさが微塵もなかった。
着替えて茶の間に座った賢治の前に、志津が膳を運んでくる。今夜の主菜は、琥珀色に透き通った鮟鱇の煮こごりと、飴色になるまで出汁を吸った大根の煮物。
「玄関を開けられた時の賢治さんの足音が、いつもより弾んで聞こえました。やはり、お仕事が捗ると、お心も軽くなるのですね。まるでお若くなったようでございます」
志津が微笑みながら、丁寧な所作で茶を淹れる。湯気の向こうにある彼女の笑顔も、今夜は一段と温かく感じられた。
「見透かされているな。いや、実際、心の煤を払ったような気分だよ。こうして早い時間から君と向かい合って食事ができるのは、二月の水曜日ならではの贅沢だね。日常の喧騒から切り離された、この家だけが世界の中心であるような、そんな錯覚さえ覚えるよ」
賢治は煮こごりを一口運び、その冷たくも深い旨味が舌の上で熱に溶けていくのを、目を閉じて味わった。
「志津。今夜はゆっくりできそうだ。何か、君が街で見聞きした話や、最近思っていることを聞かせてくれないか。今日は数字の話ではなく、君と言葉を交わす時間を、何より大切にしたいんだ。どんな些細なことでも構わない。君の目を通した八戸の景色を聞かせてほしい」
茶柱が立った茶碗を手に、賢治は志津の言葉を待った。火鉢の炭がパチリと音を立て、二人の時間を祝福するように赤々と燃えていた。
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