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月待ちの灯(あかり)  作者: しゅう


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立春

主人公 牧野 賢治

妻 牧野 志津

娼館の女 お蘭

大正の空気が、わずかに緩んだような気がした。

立春。暦の上では今日から春が始まるというものの、北国の寒さは依然として厳しい。それでも、牧野家の縁側に差し込む日差しには、一月までの刺すような鋭さは消え、どこか柔らかな光が混じり始めていた。

志津が居間で針仕事を動かしていると、玄関の方で、聞き慣れた、しかし少しだけ遠慮のない声が響いた。

「ごめんよ、志津さん。居るかい?」

志津の顔がぱっと明るくなる。

「まあ、お蘭さん」

戸を開けて現れたお蘭は、冬の冷気をまといながらも、その表情には彼女らしい、さっぱりとした笑みが浮かんでいた。手には、紙に包まれた小ぶりの包みを下げている。

「これ、近所の寄合よりあいで手に入ったからさ。立春だろう? 縁起物だよ」

差し出された包みの中には、殻の付いた立派な落花生が詰まっていた。

「嬉しい。お蘭さん、さあ、上がって。今ちょうどお茶をれるところだったの」

かつて、夫の賢治を介して出会ったあの頃の、どこか刺々しい距離感はもうそこにはない。お蘭は遊郭という、欲と虚飾が渦巻く「夜の街」の住人であり、志津は慎ましく賢治の帰りを待つ「昼の陽だまり」の住人だ。本来であれば交わるはずのない二人を結びつけたのは、賢治という特異な存在と、何よりこの過酷な時代を生き抜こうとする、女同士の剥き出しの誠実さだった。

幾度となくこの家を訪れ、この場所で言葉を交わしてきた。お蘭は志津にとって、街の裏側を教えてくれる協力者である以上に、この厳しい時代を共に笑い、共に語らう、かけがえのない友人となっていた。

二人は火鉢を囲んで座る。パチン、パチンと殻を割る乾いた音が、静かな午後の居間に心地よく響いた。

「それでね、志津さん。最近、あっちの旦那衆の間で、ちょっと妙な噂が流れていてね……」

お蘭が声を潜める。それは彼女だけが拾い集めることのできる、街のよどみのような情報だ。だが、志津はそれを怖がることはない。お蘭が届けてくれるその「裏の声」こそが、この家を、さらに愛する夫を守るための確かなすべになることを知っているからだ。

「……そう。そんな動きが」

「ああ。でも、あんたがそんなに心配そうな顔をすることはないよ。何かあったら、すぐに私がまた駆けつけてくるからさ」

お蘭はそう言って、香ばしい落花生の身を口に放り込んだ。お蘭にとって、この牧野家で過ごす時間は、冷え切った心を温め直すための、冬の終わりの焚き火のようなものだったのかもしれない。

「お蘭さん、いつもありがとう。あんたが来てくれると、なんだか本当に春が来たみたいに感じるわ」

「よしておくれよ、柄にもない」

お蘭は照れ隠しに笑い、お茶を啜った。

やがて、窓の外の光が橙色に染まり始め、近隣の家々から夕餉の支度の匂いが漂い始めた。お蘭はふと、影が長く伸びた庭先に目をやった。

「おっと、もうこんな時間かい。そろそろ戻らなきゃ、私も夕方の支度に遅れちまう」

お蘭はさっと立ち上がり、手際よく身なりを整えた。彼女の生きる場所は、これからが「本番」の時間なのだ。

「わざわざ届けてくれてありがとうね、お蘭さん。暗くなるから気をつけて」

「分かってるよ。また来るからさ」

お蘭の賑やかな足音が遠ざかり、家の中に静寂が戻る。志津は彼女が残していった落花生の殻を一つずつ丁寧に片付け、夕食の準備のために台所へ立った。桶に溜めた水で米を研ぐ。その指先に伝わる水の冷たさも、心なしか和らいで感じられた。


しばらくして、玄関の潜り戸が勢いよく開く音が響いた。

「ただいま!」

弾んだ声とともに、一日の外の空気を纏った賢治が帰宅した。土間に荷物を下ろす音がいつもより力強く、仕事の手応えを感じさせた。その頬は寒風に晒されて赤らんでいたが、眼鏡の奥の瞳には、内側から溢れ出すような活力が宿っていた。

「賢治さん、お帰りなさい。お蘭さんが立春の落花生を届けて帰られたのよ」

志津が台所から顔を出し、濡れた手を拭きながら夫を迎える。賢治は「ほう」と目を細め、火鉢の傍らに置かれた包みに歩み寄った。彼は冷えた手を火にかざしながら、お蘭の活気がまだ微かに残る部屋を見渡した。

「ああ、お蘭さんが。それはありがたい。……志津さん、なんだか部屋の中がいつもより明るく感じます。お蘭さんが春の気配を一緒に運んできてくれたのかもしれませんね」

賢治はお蘭が置いていった落花生を一粒手に取り、そのゴツゴツとした殻の感触を確かめるようにして傍らに座った。外で厳しい現実に立ち向かってきた彼にとって、愛する妻が守るこの家の温もりと、友人が残した真心は、何よりの活力となった。

「志津さん、本当の春は、もうすぐそこまで来ています。今日、外を歩きながら確信しました。これからは、もっと良い季節になりますよ」

賢治のその言葉には、単なる暦の上での話ではない、彼ら夫婦がこれから切り拓こうとする未来への強い決意が込められていた。

外はまだ深い雪に閉ざされている。けれど、この家の中に流れる空気は、たしかに冬を越え、新しい季節の芽吹きを予感させていた。身分の違いも、生きる場所の違いもない。ただ、互いを信じ、支え合う夫婦の間に、穏やかで力強い光が満ちていた。

立春。それは、ただのカレンダーの節目ではない。牧野家にとって、新しい希望を種まくための、確かな始まりの音であった。

読んでいただきありがとうございます。

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