節分
主人公 牧野 賢治
妻 牧野 志津
大正八年二月三日、月曜日。
週明けの八戸の街は、低く垂れ込めた鉛色の雲に覆われていた。銀行の窓から見える景色は、彩度を失ったかのように灰色一色で、時折吹き付ける地吹雪が窓ガラスをガタガタと震わせている。
(まだ、春は遠いな……)
賢治はカウンターの内側で、冷えた指先に息を吹きかけながら、手際よく札束を揃えていた。銀行内には、石炭ストーブのパチパチという音と、帳簿をめくる乾いた音、そして客が持ち込む雪を払う音だけが響いている。一月の最悪の時期に比べれば、訪れる客の数は確かに増えていた。しかし、この重苦しい天気は、人々の心から完全な安堵を奪い去っているようにも見えた。
「牧野さん、今日は節分ですね。今夜もまた降りそうだ」
顔馴染みの呉服屋が、襟元に積もった雪を払いながら苦笑いを見せる。賢治は、預金通帳に判を捺しながら、力強く頷いた。
「ええ。ですが、この雪を越えれば立春です。今夜は、うちでも一月の病魔をまとめて追い払うつもりですよ」
賢治のペン先は、迷いなく数字を刻んでいく。外の景色がどれほど暗く、冷たくとも、銀行員としての自分の職責を果たすこと、そして何より、この街に電燈という新しい光を導き入れるための「足場」を固めること。その使命感が、賢治の体を内側から温めていた。
夕刻、賢治が銀行を出ると、空からはしんしんと細かな雪が舞い始めていた。街のあちこちから「鬼は外、福は内」という声が、雪の静寂に吸い込まれては響く。賢治は外套の襟を立て、志津が待つ家路を急いだ。
「おかえりなさい、賢治さん。冷えたでしょう」
玄関を開けると、志津の温かな声と、香ばしい豆の香りが賢治を包み込んだ。茶の間には、昨日志津が丁寧に選り分けた落花生が、大きな升いっぱいに用意されている。夕食を終えた賢治は、仕事着を脱ぎ捨てると、「よし、やるか」と、家長としての気合を入れ直した。子供のいない静かな家だが、だからこそ一粒一粒に込める祈りは重い。
「鬼は、外! 福は、内!」
賢治が腹の底から声を上げ、落花生を力強く投げつける。志津もまた、賢治の後に続いて「福は内」と、凛とした声を響かせた。床に弾ける落花生の「カラコロ、カラコロ」という乾いた音は、一月のあの、絶望に近い重苦しい静寂を粉々に砕いていくようだった。
「志津、もっと撒こう。あの病魔も、この冬の厳しさも、全部まとめて追い出すんだ」
「はい、賢治さん」
二人の笑い声と落花生の跳ねる音は、畳を叩き、襖を震わせ、牧野家の中に満ちていた澱んだ空気を一掃していく。一月、死の影を振り払うために必死で支え合った二人の手。その手が今は、福を呼び込むために軽やかに舞っていた。
「最後は、俺が締めるぞ」
賢治は升を手に取り、窓を勢いよく開け放った。
「鬼は外――!」
開口部から流れ込んできたのは、湿り気を帯びた二月の冷たい雪と、頬を刺すような夜気だった。しかし、賢治は怯まない。真っ暗な夜の底、雪が舞う八戸の空に向かって、魂を込めて叫んだ。
(この雪の帳を切り裂くような、そんな光を俺は灯すんだ)
それは、古い習慣や病魔を追い出すだけでなく、この街の未来を阻むあらゆる「闇」への挑戦状でもあった。電柱が立ち、電線が走り、この雪の夜を黄金色に染め上げる日。その光景が、賢治の脳裏には鮮明に描かれていた。
「賢治さん、もう閉めましょう。雪が入りますわ」
志津がそっと寄り添い、賢治の腕を支えるようにして窓を閉めた。室内にはまだ、豆の香ばしい匂いと、二人が響かせた声の余韻が残っている。
「志津、明日は立春だ。この雪は、新しい季節が来る前の、最後の清めのようなものかもしれないな」
「ええ。本当の春が、もう玄関先まで来ている気がいたします」
後片付けをしながら交わす言葉は、死線を共に越えた夫婦だけが共有できる、深い信頼の響きを持っていた。
八戸の雪はしんしんと降り続いていたが、牧野家の心には、決して消えない希望の火が赤々と灯っていた。
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