落花生
主人公 牧野 賢治
妻 牧野 志津
窓の外には、八戸の厳しい冬の空が低く垂れ込めているが、牧野家の茶の間に流れる空気は、一月とは打って変わってどこか柔らかい。一月の間、志津の心を支配していたのは、目に見えぬ病魔への恐怖と、家族を何としても守らねばという張り詰めた緊張感だった。しかし今日、茶の間の卓に置かれたのは、昨日賢治が仕事帰りに買ってきてくれた「薄紅色の干菓子」である。
「綺麗な色ですね、賢治さん。まるですぐそこまで来ている春の、梅の蕾のようです」
志津が丁寧にお茶を淹れると、湯気の向こうで賢治が少し照れくさそうに目を細めた。
「二月の始まりだからね。一月は、志津には本当に苦労をかけたから、せめてものお礼だよ」
口に含むと、砂糖の繊細な甘みが舌の上でさらりと解け、上品な香りが鼻に抜けていく。それは、一月のどんこ汁で命を繋いだあの荒々しく野性味のある力強さとは対照的な、心に余裕を取り戻させてくれる文化の香りだった。
(ああ、私たちはようやく、あの嵐を生き延びたのだわ……)
お茶の温かさが喉を通るたび、志津の肩から重い鎧が剥がれ落ちていくようだった。昨日の「半ドン」がもたらしたこの平穏な日曜日のひと時は、疲れ切った牧野家にとって何よりの薬であった。
お茶の時間を終えると、志津は台所へと立ち、明日の節分に向けた準備を始めた。
使い込まれた大きな升に取り出したのは、白く乾いた殻に包まれた大量の「落花生」である。
「さて、明日は賑やかになりますね。子供たちの喜ぶ顔が目に浮かびます」
東北の、特にここ八戸のような雪深い地域では、節分の豆まきに大豆ではなく落花生を用いるのが定石だ。雪の上に撒いても、頑丈な殻があれば中身が濡れることはない。後で拾い集めて食べる際も、殻を剥けば中身は清らかなままで、衛生的でもある。それは、北国の厳しい自然の中で、食べ物を一粒たりとも無駄にしないという、人々の慎ましくも力強い知恵の結晶であった。
志津は、落花生を一つずつ手に取り、中身がしっかりと詰まっているか確かめるように選り分けていく。乾いた殻同士が擦れ合う「カサリ、カサリ」という軽やかで小気味よい音。指先に伝わる殻の凸凹とした感触。志津はこの素朴な音と手触りの中に、家族が平穏に一日を終えられることの、何物にも代えがたい喜びを噛みしめていた。
「鬼は外、福は内……」
小さく口ずさむ言葉は、もはや単なる習慣ではなかった。一月のあの闇を、病魔という名の恐ろしい鬼を、この白い豆とともに家の中から完全に追い払いたいという、母として、妻としての切実な祈りがこもっている。
窓際から差し込む陽光が、志津の手元を明るく照らし出し、升の中の落花生を輝かせている。
「明日は節分、明後日は立春……。暦は確実に、新しい季節へと向かっているのね」
まだ外は厚い雪に閉ざされているが、冬の厳しさの裏側では、すでに春の芽吹きがひっそりと準備されているはずだ。賢治が書斎で夢中になって描いている「電燈の光」も、今はまだ紙の上の複雑な線に過ぎない。けれど、それがやがて八戸の目抜き通りを実際に照らし、寒さに凍える人々の心を温める景色に変わっていくのだと、志津は微塵も疑っていなかった。
志津は、丁寧に選り分けた落花生の山を、愛おしそうに見つめた。
賢治が運んできた「薄紅色の光」という優しさと、自分が手にする「白き豆の祈り」という覚悟。
二つの想いが重なり合うこの日曜日の午後は、一月の凍てついた記憶を、静かに、そして優しく塗り替えていく。
「賢治さん、明日は思い切り豆を撒きましょうね。八戸の隅々にまで春を呼び込むように」
台所から弾んだ声で呼びかけると、書斎から「ああ、そうだね。邪気を全部払い落としてしまおう」という、一月よりもずっと明るい賢治の返事が返ってきた。
二月二日。牧野家の台所には、香ばしい豆の予感と、明後日に控えた立春への静かな希望が、春の陽だまりのように満ち満ちていた。
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