寒のどんこ
主人公 牧野 賢治
妻 牧野 志津
一月の最後の日、八戸の海は荒れ、凍てつくような潮風が街を吹き抜けていた。
志津は、馴染みの魚屋が届けてくれたばかりの「どんこ」をまな板の上に載せた。茶褐色で、ぬめりを持った無骨な姿。お世辞にも美しい魚とは言えないが、この「寒のどんこ」こそが、冬の八戸において何よりの活力の源であることを志津は知っている。
「今月も、何とか無事に終わりますね」
志津は、どんこの大きな口を横目に、感謝の念を込めて包丁を入れた。まずは塩を振り、表面のぬめりを丁寧にこそげ落とす。この一手間が、汁に雑味を残さないための秘訣だ。腹を割くと、中から驚くほど大きな、薄ピンク色の肝が顔を出す。これこそがどんこ汁の本体、命の結晶だ。志津は指先で、壊さぬよう慎重にその肝を取り出した。
包丁を握り直し、どんこの身を「ぶつ切り」にする。
「トントン」と小気味よい音が響くたび、柔らかな白い身がまな板の上で踊った。骨は意外に柔らかく、包丁の重みだけで容易に断てる。その感触は、この魚が厳しい北の海で蓄えてきた脂肪の豊かさを物語っていた。
志津は、取り出した肝を熱湯にさっと潜らせて臭みを取り、それをすり鉢に移した。そこに合わせるのは、志津が手塩にかけて育てた自家製の味噌だ。
「一対一対一。命のバランスを整えて……」
すりこぎを回すと、肝の濃厚な脂と味噌が混ざり合い、しっとりとした黄金色のペーストに変わっていく。肝の塊が完全になくなるまで、丁寧に、滑らかに「当たる」。この工程を怠ると、汁にした時に雑味が出る。
台所には、味噌の香ばしさと、海の濃厚な香りが混ざり合った独特の匂いが立ち込め始めた。鍋では、短冊に切った大根と人参が、昆布の出汁の中で静かに踊っている。そこへ、先ほど丁寧に当たった黄金色の「肝味噌」を、お玉の上で少しずつ溶かしていく。
澄んでいた出汁が、一瞬にして濃厚な薄茶色へと染まり、台所の空気そのものが、まるで別の場所になったかのように重厚な香りに包まれた。それは、ただの味噌汁ではない。どんこの「命」そのものを凝縮した、海のご馳走の匂いだった。
最後に刻んだ長葱をたっぷりと散らすと、鮮やかな緑が黄金色の汁に映えた。志津は自ら一口、汁を掬って味を確かめる。濃厚な肝の旨みが舌の上でとろけ、後から自家製味噌の尖っていない塩気が追いかけてくる。
「……よし。これで、賢治さんの疲れも解けるはず」
鍋の中で、白い身と黄金色の肝味噌が踊る。台所の曇った窓ガラスの向こう側まで、その滋養に満ちた湯気が広がっていく。
新聞を広げれば、世界が「改造」だの「軍縮」だのと騒がしく動いていることがわかる。けれど、志津にとっては、目の前の鍋から立ち上がるこの力強い匂いこそが、最も確かな真実だった。
「ただいま、志津。……おや、いい匂いだ」
凍えそうな顔で帰宅した賢治が、玄関で足を止める。
「お帰りなさいませ、賢治さん。今夜はどんこ汁ですよ。肝をたっぷり溶かしましたから、身体の芯まで温まりますわ」
志津が差し出した一膳。濃厚な肝のコクが喉を通り、胃に落ちると、賢治の顔にパッと赤みが差した。
一月という、スペイン風邪の猛威に怯え続けた毎日。それを、志津の台所は守り抜いた。二人の間に立ち上るどんこ汁の湯気は、数日後に控えた節分、そして春の訪れを告げる、小さな、しかし消えることのない「月待ちの灯」であった。
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