パリ講和会議
主人公 牧野 賢治
妻 牧野 志津
銀行の執務室は、朝から凍りつくような緊張感と、どことなく湿り気を帯びた絶望感に包まれていた。
出勤してくる行員の数は、先週に比べて明らかに減っている。昨日まで隣でそろばんを弾いていた男が、今日はもういない。その空いた席には、冷たい隙間風だけが吹き寄せているかのようだ。その椅子が、そのまま「流行性感冒(スペイン風邪)」という名の死神が通り過ぎた足跡のように見え、賢治は思わず黒いマスクの紐を直し、鼻筋に強く押し当てた。
手元の新聞を開くと、パリ講和会議での全権大使、牧野伸顕の活躍が報じられていた。
同じ「牧野」の名字を持つその男は、海の向こうで世界の知性を代表し、人種差別の撤廃や国際連盟の設立という、人類の輝かしい理想のために戦っている。
(パリでは牧野全権が、理性の光で世界の新しい夜明けを築こうとしているというのに……)
賢治は、深い溜息と共に、インクの匂いが鼻につく紙面をめくった。
そのすぐ隣の面には、目を背けたくなるような国内の惨状が、無機質な活字で埋め尽くされていた。各地で火葬場がパンクし、葬儀もままならぬまま遺体が積み上がっているという。八戸とて例外ではない。昨日、隣の通りで葬列を見かけなかったのは、死者がいなかったからではない。弔う余裕すら奪われ、死が日常の中に埋没し始めているからなのだ。
「……申し訳ありませんが、本日は担当者が不在でして。明日以降に、また……」
銀行の窓口では、青白い顔をした同僚が、不安げな顧客に対して何度も力なく頭を下げていた。
預金を引き出しに来る者、必死の形相で融資の相談に来る者。その誰もが、分厚い黒マスクの奥で怯えた瞳を揺らしている。かつては近代化の夢や、新しい商いの希望を語り合っていたこの大理石のカウンターも、今はただ、目に見えない病魔の影から逃れるための、寒々とした避難所のようだった。
室内には、消毒薬の匂いと、人々の不安が混ざり合った独特の重苦しさが沈殿している。
「牧野さん、貴方は……どうしてそんなに、背筋を伸ばしていられるのですか」
隣の席で、震える手で帳簿をめくっていた若手の行員が、消え入るような声で漏らした。彼の頬はこけ、目元には濃い隈が浮いている。
その問いに、賢治は自らの身体の芯が、周囲の寒々とした空気とは裏腹に、確かな熱を帯びていることに改めて気づく。
それは、今朝、志津が「お守りです。しっかり食べて」と言って、炊き立ての飯に載せてくれた、あの大蒜味噌の熱だった。
喉を焼くような強烈な刺激と、鼻に抜ける力強い大蒜の香り。それは平時であれば、職場では「大蒜臭い」と疎まれ、眉をひそめられるはずのものだ。しかし、死の気配が霧のように漂う今の銀行において、この生命力に満ちた匂いは、何よりも頼もしい「生」の証のように感じられた。
(志津の言う通りだ。今は高邁な理屈ではない。まずは食らい、この熱を絶やさず、生き延びることだ)
賢治は、心の中で志津に深く感謝した。
彼女が家中の床を冷たい水で拭き清め、大蒜を力強くすり潰し、一対一対一の調和に祈りを込めて作ってくれたあの食卓。志津が守り抜こうとしているあの温もりが、今、銀行という名の戦場に立つ賢治の、目に見えない強固な「盾」となっている。
周囲が絶望に沈み、理想を語る口が重く閉ざされる中で、賢治だけはペンを止めることはなかった。インクに浸したペン先が、力強く紙を走る。
「……必ず、この街に光を灯さねばならない」
パリの牧野全権が世界の秩序を守ろうとしているのなら、自分はこの八戸の地で、病と闇に怯える人々を照らす「電燈」という、実利の光を守り抜く。それが自分の戦いなのだ。
志津が身体の中に宿してくれたこの大蒜の熱を、決して絶やしてはならない。
賢治は、再び電燈事業の計画書に鋭い視線を落とした。
大蒜の野性味のある香りと共に、彼の中に静かな、しかし激しく燃え上がる闘志が、確かに再燃していた。
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