大蒜味噌
主人公 牧野 賢治
妻 牧野 志津
週の半ばを過ぎ、八戸の街に漂う空気はさらに重苦しさを増していた。
「お隣の町の小学校が、ついに閉鎖になったそうですわ。あそこの家のお子さんも寝込んだとか……」
今朝、井戸端で交わされる主婦たちの会話は、以前のような世間話ではなく、まるで戦場での情報のやり取りのように切実なものに変わっていた。誰がいつ倒れてもおかしくない。そんな恐怖が、雪混じりの風に乗って街の隅々まで染み渡っている。
賢治さんを送り出した後、志津は玄関の戸を静かに、しかし固く閉め、自らの「戦い」を開始した。
彼女が用意したのは、大きめの鉢にたっぷりと作られた濃い目の「塩水」である。
「含嗽、よし。……次は部屋の四隅ですね」
賢治さんには、出掛ける前に念入りに喉の奥まで洗わせ、新しい黒マスクを持たせた。そして自分もまた、一日に何度も塩水で喉を清める。目に見えない病魔という「毒気」を、家の中に一歩も入れないための、それが志津なりの目に見えない結界だった。
志津は、使い古した布巾を桶に浸し、きつく絞ると、家中を拭いて回った。
ただの掃除ではない。廊下の板目、建具の取っ手、鴨居の隅々まで、まるで穢れを払うかのように丁寧に、何度も手を動かす。冷たい水が指先の感覚を奪っていくが、志津は手を止めなかった。
「……賢治さんは、外で戦っておいでですものね」
新聞に載っていた「大本」の熱狂や、パリでの講和会議。賢治さんの心に影を落としている大きな世界の出来事は、志津には遠い国の物語のように感じられることもある。けれど、彼が毎日健康で、背筋を伸ばして仕事に向かえるようにこの家を整えること。それは、志津にしかできない、世界で一番大切な任務だと思えた。
掃除を終えると、彼女は囲炉裏に太い薪をくべた。
火を絶やさないこと。常に空気を動かし、部屋を温めること。
「冷えは万病の元。身体を芯から温めていれば、病魔も退散する」
幼い頃に母から繰り返し聞かされた教えを、志津は今、一語一語を噛みしめるように、祈るような気持ちで実践していた。立ち昇る白い湯気が、家の冷気をゆっくりと押し返していく。
お昼時、志津は台所の床下にある深い貯蔵庫の蓋を開けた。
ひんやりとした土の匂いと共に、秋に収穫して吊るしておいた「大蒜」を一房取り出す。
皮を剥くと、寒さに耐えてきた真っ白で瑞々しい身が顔を出す。これをすり鉢に入れ、少しずつ、力強くすり潰していく。
「……にんにく、にんにく……。病魔を退ける、命の薬」
丁寧にすり潰した真っ白な大蒜を、一昨年から大切に使っている自家製味噌と合わせる。
「大蒜味噌」の準備だ。
すり鉢の中で味噌と大蒜が混ざり合うと、台所には一気に力強く、鼻を突くような刺激的な香りが立ち込めた。その匂いは、目に見えるほどの厚みを持って家中に広がっていく。
「……よし、いい匂い。これなら大丈夫」
志津はその味噌を小鍋に移し、囲炉裏の端でじっくりと練り上げた。
ぷつぷつと泡を立てながら、香ばしい匂いが天井の梁にまで染み込んでいく。この強い匂いこそが、病魔を追い払う目に見えない盾になるような気がした。
一升漬のピリッとした熱に加え、この大蒜味噌の粘り強い力が、賢治さんの身体を内側から支えてくれるはずだ。
志津は、炊き立ての飯の上に、練りたての大蒜味噌をひとさじ載せた。
黄金色に輝く味噌から立ち上がる香りを胸いっぱいに吸い込み、彼女は小さく頷いた。
「さあ、今夜はこれをたっぷりと食べていただきましょう」
窓の外では、黒いマスクをした人々が足早に通り過ぎていく。けれど、牧野家の台所には、家族を守り抜こうとする者の、力強くも誇り高い「食の匂い」が満ちていた。
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