おにぎり
主人公 牧野 賢治
妻 牧野 志津
娼館の女 お蘭
賢治さんが「図面を引き直さねば」と、昨日よりも心なしか背筋を伸ばして出かけていった後、牧野家の台所には柔らかな静寂が戻っていた。
志津は、使い込まれた布巾を丁寧に絞りながら、少しだけ誇らしい気持ちでいた。昨日の昼、彼が「一升漬」を一口食べて見せた、あの驚きと安堵の混ざった顔。
(私の作ったものが、あの方の力になれた……)
その実感が、月曜日の家事をいつもより軽やかなものにしていた。台所を整える手にも自然と力が入り、磨き上げられた床が、冬の薄い光を跳ね返している。
志津はふと、鴨居を見上げた。
そこには、今年の冬の初めにこしらえた「味噌玉」が、行儀よく縄で縛られて吊るされている。大豆を茹で、潰し、丸めたそれは、今はまだ無骨な土くれのようだが、八戸の厳しい寒風に晒されることで、ゆっくりと内側に命を宿していく。
春になればこれを砕き、麹と合わせて樽に仕込む。そしてまた「一昨年の味噌」がそうであったように、時間をかけて、来年、再来年の牧野家の食卓を支える土台となっていくのだ。
「急がず、けれど休まず、ね……」
志津は味噌玉を一つずつ手で確かめ、その冷たさの中に潜む未来の味に思いを馳せた。
昼下がり、雪を払う玄関の音が聞こえた。
「志津さん、いらっしゃる? 焼きたてを持ってきましたよ」
お隣のお蘭さんだ。開け放たれた戸口から、冷気と一緒に、なんとも香ばしい、甘じょっぱい香りが転がり込んできた。
お蘭さんが差し出したのは、割り箸に刺さった三枚の平たい丸餅。たっぷりと塗られた「胡桃じょうゆ」が、囲炉裏の火で少し焦げて、食欲をそそる琥珀色の輝きを放っている。
「まあ、お蘭さん。串もちですわね。いい香り!」
「さっきまで炭火で炙っていたんです。温かいうちに食べてちょうだい」
二人は囲炉裏の傍らに腰を下ろした。志津は、お返しに昨日開けたばかりの一升漬を小皿に出した。
「これ、昨日から食べ始めた一升漬なんです。南蛮がよく利いていますのよ」
「あら、まあ。立派な色だこと」
お蘭さんは串もちを一口齧り、そこに少しだけ一升漬を載せて口に運んだ。
「……んー! 志津さん、これですよ。胡桃のまろやかな甘さに、この南蛮のピリッとした刺激。お味噌のコクが、全部を一つにまとめてくれるわね。これは贅沢な冬のおやつだわ」
「本当。胡桃と一升漬が、こんなに仲良しだなんて思いませんでしたわ」
二人は顔を見合わせ、少女のように笑った。
「それにしても、今年の冬は長いですわね」
志津が溢すと、お蘭さんは頷きながら一升漬の分量を尋ねた。
「麹が一升、南蛮が一升。そしてお味噌が一升。……一対一対一、三位一体ですわね」
志津がそう答えると、お蘭さんは感心したように、それでいて確かな力強さで言った。
「男の人たちは、新聞を広げて世界だの、国際連盟だのと大きな夢を語るけれど。私たちにできるのは、こうして火を絶やさず、美味しいものを食べて、明日のための知恵を繋ぐことなんですものね」
その言葉は、志津の胸に深く響いた。賢治さんが守ろうとしている「光」も、こうして台所で交わされる小さな温もりがあってこそ、その輝きを維持できるのかもしれない。
「さあ、お蘭さん。お喋りしていたらお腹が空いてしまいましたわ。おにぎりを握りましょうか」
志津は炊き立ての飯を、手水をつけて手早くまとめ始めた。
中心にたっぷりの一升漬を忍ばせ、さらに表面にも薄く味噌を塗り、火に翳して香りを立たせる。海苔を巻いて、ギュッと結ぶ。
「はい、一升漬おにぎりです」
二人は、熱々のおにぎりを頬張った。
鼻に抜ける味噌の香りと、後から追いかけてくる南蛮の熱。それが、冷えた身体の隅々にまで染み渡っていく。
窓の外では、また少しずつ雪が舞い始めていた。けれど、牧野家の台所は、胡桃の香りと一升漬の熱、そして二人の笑い声に満たされていた。
「これで明日からも、また頑張れますわね」
志津は、去りゆくお蘭さんの背中を見送りながら、静かに心に誓った。
春が来るまで、この火を、この味を、大切に守り続けていこうと。
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