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月待ちの灯(あかり)  作者: しゅう


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日曜日

主人公 牧野 賢治

妻 牧野 志津

八戸の街を数日間閉じ込めていた激しい地吹雪は、ようやく鳴りを潜めていた。

銀行の公休日である今日、牧野賢治は朝から居間にどっしりと陣取り、届いたばかりの新聞を広げていた。日曜日の新聞は、平日の殺伐とした速報とは異なり、「日曜附録」という別刷りが挟まれている。そこには、蓄音機の新しい盤の紹介や、東京で流行り始めた洋装の挿絵、あるいは子供向けの教養記事などが並び、インクの香りと共に、どこか浮世離れした平和な空気を運んでくる。

しかし、一面の活字だけは別物だった。

「……国際連盟、ついに正式採択か」

賢治は低く呟き、膝の上で新聞を折り返した。パリ講和会議の全体会議において、アメリカのウィルソン大統領が提唱した「国際連盟」の設立案が、満場一致で承認されたという。

遠い異国の地パリで、日本の全権団が列強と対等に渡り合い、二度とあのような惨禍を繰り返さぬための平和の礎を築こうとしている。その壮大な、人類の進歩とも言える光景を想像すると、賢治の胸の奥には熱いものが込み上げてくる。

一方で、賢治はふと窓の外を見た。軒先からは、この数日の猛吹雪が残した、槍のように鋭い氷柱が幾本も垂れ下がっている。

世界が平和を誓い合い、手を取り合おうとしているその影で、この八戸の街では、たった数本の電線が雪の重みで悲鳴を上げ、停電の危機に怯えている。理想と現実。世界という巨大な地図と、自分の足元にある、泥臭くも愛おしい暮らし。そのあまりの距離に、賢治はふと目眩めまいに似た疲れを感じ、新聞を持つ手に力を込めた。


「賢治さん、少し目を休ませてくださいな。お昼にいたしましょう」

志津の穏やかな声に呼び戻され、賢治は眼鏡を外した。

運ばれてきた盆の上には、海苔の香りが微かに漂う握り飯と、立ち上る湯気が白い「風呂吹き大根」。そして、その傍らに、昨日志津が床下から出してきたという琥珀色の「一升漬」が、小皿に品よく盛られていた。

「これが、昨日仰っていた……」

「ええ。味噌仕込みの一升漬。ちょうど食べ頃になっておりましたわ」

賢治は箸を伸ばし、その琥珀色の塊をほんの少し掬い上げた。

一年半という年月を経て、黒々と、しかし艶やかに熟成した味噌のなかに、麹の白い粒が宝石のように散らばっている。それを、熱々の大根にたっぷりと載せ、口へと運んだ。

「……っ!」

瞬間、言葉を失った。脳天を突き抜けるような南蛮の鋭い辛味が、一気に喉元まで駆け上がる。あまりの刺激に、賢治の喉がクッと鳴った。

だが、驚きはすぐに、深い感嘆へと変わっていく。

辛さのすぐ後ろから、一昨年の春からずっと樽の中で眠り続けてきた「味噌」の、重厚で大地のような旨味が追いかけてくるのだ。さらに、冬の入り口に加えた麹の優しい甘みが、荒ぶる南蛮の熱をなだめるように全体を包み込み、熱い余韻となって胃の腑へと落ちていった。

「……美味いな。これは、本当に」

賢治は、今食べたばかりの味を反芻するように、ゆっくりと息を吐いた。

「この辛さ、このコク。どれ一つとして欠けてはならない、完璧な調和だ」


「麹が一升、南蛮が一升。そして、大切に守ってきたお味噌が一升。……どれも一升ずつの分量なんですのよ」

志津は茶を注ぎながら、どこか遠くを見るような目で語り始めた。

「一昨年の春のお味噌、去年の秋の南蛮、そして冬の入り口の麹。みんなバラバラの場所で、違う時間を過ごしてきたものたちが、瓶の中で一つになる。志津は、その様子を見ていて思いましたの。急いでかき混ぜても、こうはならない。お互いの角が取れて、ゆっくりと馴染むのを待って……そうしてようやく、この一升漬になるんですのね」

賢治は、小皿に残った一升漬をじっと見つめた。

一升、一升、一升。

一対一対一の、潔い比率。

それは、彼が今向き合っている「電燈事業」という名の荒野にも、通じる真理のように思えた。

資本、技術、そして街の人々の信頼。そのどれが欠けても、どれが突出しすぎても、真の「光」にはならない。

「時間をかけて、馴染むのを待つか……。私は、少しばかり急ぎすぎていたのかもしれんな」

賢治はもう一度、新聞の「国際連盟」の文字に目を落とした。

世界を一つにするという大業も、きっとこの一升漬と同じなのだ。理想の旗を掲げるだけでなく、違う文化、違う時間を生きてきた国々が、お互いの存在を認め合い、時間をかけて一つの『味』へと熟成していく過程が必要なのだ。

「志津、おかわりをくれるか。この一升漬があれば、午後はもう少し、昨日よりも丁寧に図面を見直せそうだ」

賢治の表情から、先ほどまでの曇りが消え、晴れやかな光が宿っていた。

外では再び、冷たい風が壁を叩き始めた。けれど、牧野家の食卓には、志津が育てた小さな「火種」が赤々と燃えている。

賢治は、心地よい汗を額に浮かべながら、日曜日の午後の静かな、けれど熱い戦いへと、再び心を備えるのだった。

読んでいただきありがとうございます。

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