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月待ちの灯(あかり)  作者: しゅう


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78/80

時代の潮目

主人公 牧野 賢治

妻 牧野 志津

志津に手渡された、火鉢で温められたばかりのはかまは、驚くほど軽くて温かかった。昨夜、あんなに丹念に作ってくれた「ひっつみ」の熱が、まだ身体の芯に居座っているような気がする。

「行ってくるよ、志津。今日は昨日より風が強いようだ、戸締まりをしっかりね」

「はい。賢治さんも、お気をつけて。お帰りを待っておりますわ」

玄関を開けた瞬間、暴力的なまでの地吹雪が賢治を襲った。

八戸の冬は、時に呼吸すら困難にさせる。視界は数メートル先すらおぼつかない白銀の迷宮だ。

賢治はマフラーに深く顔を埋め、銀行への道を急いだ。昨日、自分が志津を追いかけたあの道も、今は雪の壁に囲まれて別の場所のように見える。


銀行の執務室に辿り着いたときには、賢治の眉毛や睫毛はすっかり凍りつき、真っ白になっていた。

ようやく身体を温め、一息ついた休憩時間。賢治は広げた新聞の紙面に、思わず目を止めた。

『パリ講和会議、国際連盟の設立決定』

フランスの地で、世界を二分した大戦の後始末が語られている。人類が初めて、力ではなく「対話と連盟」によって平和を維持しようとする、壮大な実験。

賢治は活字を追いながら、ふと深い溜息をついた。

(国際連盟……。これから、世界はどうなるのだろうか)

かつてない「平和」への期待と、それと同じくらいの「不透明な不安」が胸をかすめる。人種差別撤廃の議論や、領土の配分。遠い海の向こうで、偉い人々が引く一本の線が、この八戸の片隅にまで影響を及ぼす時代になったのだ。

けれど、賢治はすぐに首を振った。

「世界がどうなるか、私のような一銀行員に答えは出せない。だが……」


上司の声に引き戻された。

「昨夜の寒波で、やはり郊外の電線に支障が出たそうだ。絶縁体が凍りつき、一部で停電も起きているらしい。融資の件、慎重に進めたほうがいいのではないか。八戸の冬に、電気はあまりに脆いのではないかという意見も出ている」

現実の壁は、パリでの華やかな会議よりもずっと冷徹だった。

光を灯すことは、単に設備を整えることではない。この過酷な北国の自然と、二十四時間、三百六十五日戦い続けるということなのだ。

「脆いからこそ、強固なものにしなければならないのです」

賢治は静かに、けれどはっきりと答えた。

「自然に負けるような光では、この街の人々の心は救えません。私は、そのための投資だと信じています」


仕事を終えて外へ出ると、風は幾分収まっていたが、空気は研ぎ澄まされた刃物のように鋭かった。

暗闇の中を歩きながら、賢治は再び新聞の内容を思い出していた。

世界の大きな変化。新しい秩序。

(世界規模の平和を論じるのも尊いことだ。だが、私にできることは、この街の一軒一軒に、夜を怖がらずに済む明かりを届けることだけだ)

遠くの闇の向こうに、我が家の窓から漏れる微かな灯りが見えた。

オレンジ色の、弱々しく、けれど温かな光。

その光を見た瞬間、賢治の迷いは消えた。

(あそこに志津がいて、私が帰るのを待っている。それだけで、私は明日も戦える)

家々の窓に灯る明かりは、単なる照明ではない。それは、そこで営まれている人々の人生そのものだ。その一つ一つを守ることが、彼にとっての「平和」の具現化だった。


「ただいま、志津」

玄関の戸を開けると、昨日と同じ、いや昨日よりもずっと愛おしい、ひっつみの香りと志津の笑顔が賢治を待っていた。

「お帰りなさいませ、賢治さん。今日も、無事に帰られて何よりです」

世界がどう変わろうとも、この温もりだけは守り抜かねばならない。

賢治は冷え切った手を火鉢に翳しながら、自らの中に灯った、消えることのない情熱を静かに噛み締めていた。

読んでいただきありがとうございます。

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