ひっつみ
主人公 牧野 賢治
妻 牧野 志津
「……まあ、なんて冷え込みかしら」
朝、志津が目を覚まして最初に目にしたのは、窓ガラス一面にびっしりと張り付いた「霜の花」だった。
外気があまりに低いため、部屋の中のわずかな湿気がガラスに凍りつき、まるで繊細なレース細工のような模様を描いている。
布団から出た瞬間に、刺すような冷気が肌を刺した。
昨夜、賢治と笑い合った温もりはまだ残っているが、家の中は冷蔵庫のように冷え切っている。
台所へ向かうと、水瓶に張った氷は昨日よりもずっと厚く、拳で叩いてもびくともしなかった。
「今日は、あの『ひっつみ』でなければ身体が持ちませんわね」
志津はかじかむ手にふうふうと息を吹きかけ、まずは火鉢に炭を熾すことから一日を始めた。
賢治を仕事へと送り出し、家事の合間に志津は「ひっつみ」の準備に取り掛かった。
昨日の「せんべい汁」は市販のせんべいを使ったが、今日の「ひっつみ」は粉を練るところから始まる。
「ひっつみは、急いではいけませんの。お料理は心に余裕があるときに作るのが一番ですわ」
志津はボウルに地元の小麦粉を盛り、少しずつぬるま湯を足していく。
(お湯の量は、粉の様子を見ながら。耳たぶくらいの柔らかさになるまで、手のひらで力強く、けれど優しく練り上げるのです)
粉っぽさが消え、赤ちゃんの肌のように滑らかになったら、一まとめにする。
志津はそれを濡れ布巾で包み、一時間ほど静かに置いておくことにした。
(こうして『寝かせる』ことで、小麦の粘りが出て、あのツルリとした喉越しが生まれるのです。焦ってすぐに茹でてはいけませんよ)
生地を寝かせている間、外の風の音はさらに激しさを増した。
「地吹雪」だ。
空から降る雪だけでなく、地面に積もった雪が強風で巻き上げられ、視界を白一色に染め上げる。八戸の冬の恐ろしさだ。
志津は、その荒れ狂う外の世界を窓越しに眺めながら、鍋に火をかけた。
出汁は、鶏のガラと昆布で丁寧にとる。
具材は、雪の下から掘り出した力強い大根と人参、そしてたっぷりのゴボウ。
(寒波に耐えた根菜は、煮込むほどに甘みが出るのです)
鍋の中で野菜が躍り、醤油の香ばしい匂いが家中に満ちていく。
いよいよ、仕上げの時。
志津は寝かせておいた生地を取り出した。一時間前よりも、ずっとしなやかで弾力がある。
「さあ、ここからが腕の見せ所ですわ」
志津は手元に水の入った小さな茶碗を置いた。
指先をちょんと水で濡らす。これは、生地が手にくっつかないようにするためだ。
生地を少し指先で千切り取り、親指の付け根でぐいっと薄く押し広げる。
(ひっつみ、というのは『引きちぎる』という言葉から来ているのですよ)
その名の通り、薄く伸ばした生地を、沸騰した鍋の中へ「パチン」と小気味よく放り込んでいく。
(とにかく薄く、透けるほどに伸ばすこと)
厚すぎると団子になってしまうが、薄く伸ばせば、出汁をたっぷり吸った極上の「麺」になるのだ。
次々と鍋の中に、白い生地が舞い落ちる。
火が通るにつれ、生地は透明感を帯び、美しい黄金色のスープの中に浮かび上がってくる。
「ただいま……っ、志津! 今日は、外は地獄だよ!」
夕刻。賢治が、全身に雪をまとい、眉毛まで白く凍らせて帰宅した。
「まあ! 賢治さん、すぐに火鉢へ。お湯も沸いていますわ」
志津は慌てて駆け寄り、彼のコートを脱がせた。賢治の手は氷のように冷たく、感覚がないようだった。
「今、熱いひっつみができています。今夜はこれでお腹を温めてください」
食卓に運ばれた「ひっつみ」からは、力強い湯気が立ち上っている。
賢治は震える手で箸を取り、まずは透き通った生地を一口啜った。
「……っ、熱い! でも、旨い……」
ツルリとした滑らかな表面、噛めばモチモチと押し返してくる弾力。
そして、野菜と鶏の旨みを一滴残らず吸い込んだ生地の甘み。
「志津、この『ひっつみ』の喉越しは天下一品だ。凍りついていた血が、一気に巡り始めるのが分かるよ」
窓の外では、依然として地吹雪が家を揺らしている。
けれど、八戸の小さな家の中には、小麦の豊かな香りと、ひっつみを啜る幸せな音が満ちていた。
「明日もこの寒波は続くのでしょうか。明日もまた、ひっつみがよろしいでしょうか。」
志津は微笑み、自分もまた、熱い一杯を口に運んだ。
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