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月待ちの灯(あかり)  作者: しゅう


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思い出し笑い

主人公 牧野 賢治

妻 牧野 志津

午後。八戸銀行の執務室で、賢治は向かいの席に座る同僚から不審な目で見られていた。

「……君、さっきから何をニヤニヤしているんだ。融資の計算に間違いでもあったか?」

「えっ? ああ、いや、失礼。なんでもないんだ」

賢治は慌てて真顔に戻り、手元の書類に目を落とした。

しかし、一度緩んだ頬はなかなか元には戻らない。

昨夜、志津が語った「恐怖の辻斬り」の正体が、自分だったという事実。そして、家まで全力で疾走した彼女のあの必死な後ろ姿。

(あんなに速く走れるものなのだな、人は……)

銀行員として冷静な分析をする脳裏に、夜道で風を切って逃げていく妻の、少し滑稽で、けれど愛らしい姿が何度もリフレインしていた。


賢治は、大きく咳払いをして、改めて電燈会社からの融資依頼書に向き合った。

昨夜の笑い話は、賢治に一つの強い確信を与えていた。

「闇は、人を狂わせる」

愛する夫を殺人鬼と思い込ませ、平穏な日常を地獄に変えてしまう。それは、個人の気の持ちようではなく、物理的な「暗闇」がもたらす暴力なのだ。

(電燈の普及は、単なる文明開化の流行ではない。それは、この街に住む人々の『安心』という名の権利を確保することだ)

賢治は万年筆を握り直し、計算機を叩いた。

今の八戸の電力供給量では、まだ裏通りの隅々まで街燈を灯すには足りない。発電所の設備を増強し、低利での融資を可能にするスキームを構築しなければならない。

「君、今日の君は妙に熱が入っているな」

「ああ、急がなければならない気がしてね。一人でも多くの市民が、夜道を笑って歩けるように」

賢治は、数字の羅列の中に、未来の八戸の明るい夜景を重ね合わせていた。


仕事が終わると、賢治は昨日よりもずっと早い時間に銀行を出た。

まだ西の空にはわずかに朱色が残っているが、八戸の冬の夜は足早にやってくる。

賢治は、昨夜の「追走劇」のルートを辿るように歩き始めた。

三日町の通りを抜け、志津が恐怖に身を震わせたであろう、あの裏通りの入り口に立つ。

(ここだ。ここで志津は、私の足音を聞いたのだな)

自分の下駄が雪を踏む音を聞きながら、賢治は独り言を漏らした。

「ザッ、ザッ……。なるほど、確かにこの静寂の中で背後からこの音が迫ってきたら、誰だって生きた心地はしないか」

角を曲がるたびに、昨夜の志津の動揺が手に取るように分かる気がした。

(おや、ここで志津は加速したはずだ。私もつられて走ったが……あはは、あれでは本当に追い剥ぎと変わらないじゃないか)

道ゆく人がいぶかしげに振り返るのも構わず、賢治は肩を揺らして笑った。

昨夜の自分たちのドタバタ劇が、あまりにも人間味に溢れていて、可笑しくて仕方がなかったのだ。


やがて、見慣れた我が家の門が見えてきた。

昨夜はここで、志津は死に物狂いで玄関に飛び込み、自分は必死に手を差し入れたのだった。

思い出すだけで、また吹き出しそうになる。

だが、賢治は門の前でぴたりと立ち止まった。

(今日は、驚かせてはいけないな)

昨夜のような「恐怖の再会」は、一度きりで十分だ。

賢治は玄関の戸を叩く前に、少し大きめの声で、けれど優しい響きで言った。

「志津! 賢治だ、今帰ったよ。今日は辻斬りではなく、お腹を空かせた夫の方だ!」

中から、ドタドタと慌ただしい、けれどどこか弾んだ足音が聞こえてくる。

「もう、賢治さん! またそんな冗談を!」

勢いよく開いた扉の向こうには、少し呆れたような、けれど昨夜の青ざめた顔とは正反対の、温かい灯火に照らされた志津の笑顔があった。

「お帰りなさいませ、賢治さん。今夜も冷えますね」

「ああ、冷えるな。だが、家の中は温かい。……明かりがあるというのは、いいものだね」

賢治は、志津の顔をまっすぐに見つめ、心からの安堵を覚えた。

この笑顔を守るための「光」を。

明日からの仕事への活力が、身体の芯から湧き上がってくるのを感じながら、賢治は温かい家の中へと一歩を踏み出した。

読んでいただきありがとうございます。

下の★~★★★★★で評価してもらえると勉強になります。

感想などいただけると嬉しいです。

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