せんべい汁
主人公 牧野 賢治
妻 牧野 志津
「……それでね、志津。君があまりに必死に逃げるものだから、私はてっきり、家の中に泥棒でも入って、誰か知らない男が飛び出してきたのかと思ったよ」
翌朝、膳を挟んで賢治が吹き出した。
昨夜の漆黒の闇が嘘のような、穏やかな冬の朝だ。窓の外では雪が陽光を弾き、まぶしいほどに白い。
志津は顔を真っ赤にして、お櫃から飯をよそった。
「もう、賢治さんたら! あの暗闇であんなに速く足音が近づいてきたら、誰だって生きた心地がしませんわ。私、本当に辻斬りに遭うのだとばかり……」
「ははは! 辻斬りがわざわざ『明かりを貸してください』なんて声をかけながら追いかけるものか。風で声が届かなかったのは不運だったが、君のあの逃げ足、陸上競技の選手も顔負けだったぞ」
「まあ! もうそのお話はおしまいです」
志津はぷいと横を向いたが、その口元には自然と笑みがこぼれていた。
昨夜、腰を抜かして泣きじゃくった自分が今では少し恥ずかしく、そして何より、目の前で楽しそうに笑う夫が無事で、自分もこうして朝を迎えられたことが、ただただ愛おしかった。
「今夜は、昨夜のお詫びと、賢治さんのお疲れを癒やすために、とびきりの『せんべい汁』を作りますね」
「お、それは嬉しい。志津のせんべい汁は、どこの店で食べるよりもしみじみと旨いからな」
賢治は満足げに頷き、仕事鞄を手に「行ってくるよ」と元気よく出かけていった。
賢治を見送った志津は、さっそく台所に立った。
八戸の冬は厳しい。だからこそ、この「せんべい汁」は、ただの料理ではなく、凍てついた身体を蘇生させるための儀式のようなものだ。
志津はまず、大きな鉄鍋に水を張り、煮干しの頭とワタを丁寧に取り除いて放り込んだ。
「お出汁を急いではいけないわ」
弱火でじっくりと、煮干しの芯から旨みが溶け出すのを待つ。湯気が立ち上り始めると、台所に海の香りがふわりと広がった。そこに、一口大に切った鶏肉を投入する。鶏から出る脂が、煮干しの出汁にコクという魔法をかけるのだ。
次に取り出したのは、地元の泥付きの根菜たちだ。
「せんべい汁には、土の力が欠かせませんもの」
大根、人参は火が通りやすいように薄めのいちょう切りに。ゴボウは香りを立たせるために、丁寧にささがきにして水にさらす。
そして、志津のこだわりは「茸」だ。今日は立派な舞茸としめじを用意した。これらが煮えることで、汁に深い山の恵みが加わる。
鍋に野菜を入れ、アクを丁寧に取り除く。醤油と酒、そしてほんの少しの塩で味を調える。この時点ではまだ、主役のせんべいは入れない。野菜が柔らかくなり、すべての旨みが汁に溶け合って、一つの「完成されたスープ」になるまで、志津は静かに鍋を見守った。
夕刻、賢治が帰宅する少し前。志津は仕上げに取り掛かった。
籠から取り出したのは、汁専用に焼かれた「せんべい」だ。
「さあ、ここからが一番大事なところ」
志津は、真っ白な南部せんべいを手に取ると、思い切りよく「パキッ!」と音を立てて割り始めた。
「せんべいは、小さくしすぎてはいけません。一枚を四つか五つに、無造作に割るのが一番おいしいのですよ。切り口が不揃いなほうが、汁がよく染み込むのですから」
鍋がグラグラと沸騰しているところへ、割ったばかりのせんべいを一気に投入する。
せんべいが汁を吸い、白から飴色に変わり始める。
「入れてから、三分から五分。ここが勝負ですわ」
煮込みすぎてはいけない。かといって、早すぎてもいけない。
箸で触ってみて、表面はとろりと柔らかく、しかし芯にはまだしっかりと「コシ」が残っている状態。
「アルデンテ」という言葉こそ当時はなかったが、志津は経験でその最高の瞬間を知っていた。
最後にたっぷりの長葱を散らし、香りが逃げないうちに火を止める。
「ただいま。ああ、いい香りだ。玄関まで出汁の匂いが迎えに来てくれたよ」
賢治が顔を輝かせて入ってきた。
昨夜のあの真っ暗な帰り道とは違う。家の窓からは温かい光が漏れ、中には自分を待つ妻と、温かい汁がある。
「さあ、賢治さん、熱いうちに召し上がれ」
大きな椀に盛られたせんべい汁からは、もうもうと湯気が立ち上っている。
賢治はフーフーと息を吹きかけ、汁を一口啜った。
「……ああ、五臓六腑に染み渡る。昨夜の疲れが、湯気と一緒に溶けていくようだ」
次に、汁を含んだせんべいを口に運ぶ。
「この歯ごたえだ。モチモチとしていて、それでいて噛めば噛むほど小麦の甘みと出汁の旨みが溢れてくる。志津、これだよ、これが八戸の冬だ」
二人は顔を見合わせ、また笑った。
昨夜、闇の中を必死で走った二人。
今は、温かな光の下で、同じ鍋を囲んでいる。
「賢治さん、今夜はもう追いかけっこはなしですよ」
「ああ、もちろんだ。この汁があれば、どこへも行く必要はないからな」
八戸の厳しい冬の夜。
小さな部屋は、せんべい汁の湯気と、二人の笑い声で、どこまでも温かく満たされていた。
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