表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
月待ちの灯(あかり)  作者: しゅう


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

75/81

せんべい汁

主人公 牧野 賢治

妻 牧野 志津

「……それでね、志津。君があまりに必死に逃げるものだから、私はてっきり、家の中に泥棒でも入って、誰か知らない男が飛び出してきたのかと思ったよ」


翌朝、膳を挟んで賢治が吹き出した。

昨夜の漆黒の闇が嘘のような、穏やかな冬の朝だ。窓の外では雪が陽光を弾き、まぶしいほどに白い。

志津は顔を真っ赤にして、おひつから飯をよそった。

「もう、賢治さんたら! あの暗闇であんなに速く足音が近づいてきたら、誰だって生きた心地がしませんわ。私、本当に辻斬りに遭うのだとばかり……」

「ははは! 辻斬りがわざわざ『明かりを貸してください』なんて声をかけながら追いかけるものか。風で声が届かなかったのは不運だったが、君のあの逃げ足、陸上競技の選手も顔負けだったぞ」

「まあ! もうそのお話はおしまいです」

志津はぷいと横を向いたが、その口元には自然と笑みがこぼれていた。

昨夜、腰を抜かして泣きじゃくった自分が今では少し恥ずかしく、そして何より、目の前で楽しそうに笑う夫が無事で、自分もこうして朝を迎えられたことが、ただただ愛おしかった。

「今夜は、昨夜のお詫びと、賢治さんのお疲れを癒やすために、とびきりの『せんべい汁』を作りますね」

「お、それは嬉しい。志津のせんべい汁は、どこの店で食べるよりもしみじみと旨いからな」

賢治は満足げに頷き、仕事鞄を手に「行ってくるよ」と元気よく出かけていった。


賢治を見送った志津は、さっそく台所に立った。

八戸の冬は厳しい。だからこそ、この「せんべい汁」は、ただの料理ではなく、凍てついた身体を蘇生させるための儀式のようなものだ。

志津はまず、大きな鉄鍋に水を張り、煮干しの頭とワタを丁寧に取り除いて放り込んだ。

「お出汁を急いではいけないわ」

弱火でじっくりと、煮干しの芯から旨みが溶け出すのを待つ。湯気が立ち上り始めると、台所に海の香りがふわりと広がった。そこに、一口大に切った鶏肉を投入する。鶏から出る脂が、煮干しの出汁にコクという魔法をかけるのだ。


次に取り出したのは、地元の泥付きの根菜たちだ。

「せんべい汁には、土の力が欠かせませんもの」

大根、人参は火が通りやすいように薄めのいちょう切りに。ゴボウは香りを立たせるために、丁寧にささがきにして水にさらす。

そして、志津のこだわりは「きのこ」だ。今日は立派な舞茸としめじを用意した。これらが煮えることで、汁に深い山の恵みが加わる。

鍋に野菜を入れ、アクを丁寧に取り除く。醤油と酒、そしてほんの少しの塩で味を調える。この時点ではまだ、主役のせんべいは入れない。野菜が柔らかくなり、すべての旨みが汁に溶け合って、一つの「完成されたスープ」になるまで、志津は静かに鍋を見守った。


夕刻、賢治が帰宅する少し前。志津は仕上げに取り掛かった。

かごから取り出したのは、汁専用に焼かれた「せんべい」だ。

「さあ、ここからが一番大事なところ」

志津は、真っ白な南部せんべいを手に取ると、思い切りよく「パキッ!」と音を立てて割り始めた。

「せんべいは、小さくしすぎてはいけません。一枚を四つか五つに、無造作に割るのが一番おいしいのですよ。切り口が不揃いなほうが、汁がよく染み込むのですから」

鍋がグラグラと沸騰しているところへ、割ったばかりのせんべいを一気に投入する。

せんべいが汁を吸い、白から飴色に変わり始める。

「入れてから、三分から五分。ここが勝負ですわ」

煮込みすぎてはいけない。かといって、早すぎてもいけない。

箸で触ってみて、表面はとろりと柔らかく、しかし芯にはまだしっかりと「コシ」が残っている状態。

「アルデンテ」という言葉こそ当時はなかったが、志津は経験でその最高の瞬間を知っていた。

最後にたっぷりの長葱を散らし、香りが逃げないうちに火を止める。


「ただいま。ああ、いい香りだ。玄関まで出汁の匂いが迎えに来てくれたよ」

賢治が顔を輝かせて入ってきた。

昨夜のあの真っ暗な帰り道とは違う。家の窓からは温かい光が漏れ、中には自分を待つ妻と、温かい汁がある。

「さあ、賢治さん、熱いうちに召し上がれ」

大きな椀に盛られたせんべい汁からは、もうもうと湯気が立ち上っている。

賢治はフーフーと息を吹きかけ、汁を一口啜った。

「……ああ、五臓六腑に染み渡る。昨夜の疲れが、湯気と一緒に溶けていくようだ」

次に、汁を含んだせんべいを口に運ぶ。

「この歯ごたえだ。モチモチとしていて、それでいて噛めば噛むほど小麦の甘みと出汁の旨みが溢れてくる。志津、これだよ、これが八戸の冬だ」

二人は顔を見合わせ、また笑った。

昨夜、闇の中を必死で走った二人。

今は、温かな光の下で、同じ鍋を囲んでいる。

「賢治さん、今夜はもう追いかけっこはなしですよ」

「ああ、もちろんだ。この汁があれば、どこへも行く必要はないからな」

八戸の厳しい冬の夜。

小さな部屋は、せんべい汁の湯気と、二人の笑い声で、どこまでも温かく満たされていた。

読んでいただきありがとうございます。

下の★~★★★★★で評価してもらえると勉強になります。

感想などいただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ