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月待ちの灯(あかり)  作者: しゅう


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辻斬り

主人公 牧野 賢治

妻 牧野 志津

娼館の女 お蘭

賢治は八戸銀行の執務室で、東奥日報の一面を食い入るように見つめていた。

そこには、パリ講和会議の進展が躍るような活字で報じられている。

「……世界新秩序の構築か」

賢治は小さく呟いた。原敬首相が送り出した全権団が、巴里パリという華やかな舞台で、人類の平和と平等を説いている。大正という時代が、ようやく暗い戦争のトンネルを抜け、光り輝く「デモクラシー」の頂へ登ろうとしている。そんな高揚感が紙面から溢れていた。

しかし、ひとたび顔を上げ、窓口に目を向ければ、現実は別の顔を覗かせていた。

「賢治さん、この物価高、なんとかなりませんかね。米も炭も、昨年の倍近い……」

馴染みの商店主が、預金通帳を手に力なく笑う。

戦後の好景気がもたらした異常なインフレ。数字の上では豊かになっているはずなのに、庶民の暮らしは目に見えて痩せ細っていた。通貨の価値が下がり、生活必需品の値段だけが空を飛ぶ。

(世界が平和を唱えても、この街のかまどに火が灯らなければ、それは虚像に過ぎない)

賢治は、手元の帳簿に並ぶ冷徹な数字と、新聞の華やかな文字の乖離に、言いようのない焦燥感を覚えていた。


同じ頃、志津は自宅で、来客を招き入れていた。

「志津さん、お邪魔してごめんなさいね。どうしても顔が見たくて」

玄関先に立っていたのは、娼館で働くお欄だった。

志津は驚きながらも、すぐに彼女を炬燵こたつへと案内した。立場の違いなど、志津には関係なかった。お欄の語る「夜の世界」の浮き沈み、そして彼女が心の奥に秘めた寂しさを聞くことは、志津にとって一つの修業のようでもあり、また無二の友情のようでもあった。

「……あら、もうこんな時間」

お欄を玄関まで見送ったとき、志津は息を呑んだ。

話に花が咲きすぎて、外はすでに深い群青色を通り越し、漆黒へと沈んでいる。

新月の翌日。月の助けは一欠片もない。

「いけない、夕餉の買い出しを忘れていたわ」

志津は慌てて提灯に火を灯し、冷え切った夜の街へと駆け出した。


買い出しを終えた志津は、重くなった買い物かごを手に、三日町の通りを急いでいた。

普段ならまだ人通りがあるはずの時刻だが、不思議なほど街は静まり返っている。雪に音が吸い込まれ、自分の下駄の音だけが、不自然なほど大きく響く。

(なんだか、嫌な夜……)

志津は提灯を握る手に力を込めた。電燈の普及していない裏通りに入ると、光は手元の数尺先しか照らさない。その周囲は、底なしの沼のような闇だ。

その時だった。

背後で、雪を踏みしめる音が聞こえた。

「ザッ……ザッ……」

等間隔の、重い足音。

志津の心臓が、跳ねるように脈打った。


「ふう……ようやく終わったか」

賢治は銀行の重い扉を閉め、夜道に出た。

今日は電燈事業の融資計画について遅くまで議論が及んだ。

「暗いな……」

新月の翌日の闇は、想像を絶していた。自分の手さえ見えないほどの暗黒だ。停電しているのか、街角の僅かな光さえ見当たらない。

「弱ったな、これでは溝に落ちかねん」

その時、前方、遥か先に、ゆらゆらと揺れる小さな光を見つけた。

「しめた、誰か歩いている。あの明かりを頼りに、道をお借りしよう」

賢治は安堵し、その光に追いつこうと、歩みを早めた。


(足音が、速くなった……)

志津の背筋に、氷を流し込まれたような寒気が走った。

後ろの主は、確実に自分との距離を詰めようとしている。

大正の世とはいえ、夜の八戸にはまだ不逞ふていの輩や、辻斬りの噂が絶えない。あるいは、闇に潜む「お化け」の類いか。

(狙われている。あの方は、私を狙っている……!)

志津は震える足に鞭打ち、さらに歩幅を広げた。


「おや、前の御仁も急いでおられるようだ」

賢治は、前方の明かりが加速したことに気づいた。

「待ってください、明かりを貸していただきたい!」

そう叫ぼうとしたが、折り悪く北からの寒風が吹き荒れ、声は真っ白な息と共に後ろへ流される。

(このままでは置いていかれる。この闇に取り残されては、家まで辿り着けない)

賢治は焦った。頼みの綱は、あの小さな灯火だけだ。

彼は半ば走るように、雪道を蹴り上げた。


「ザッ、ザッ、ザッ、ザッ!」

背後の足音が、今や暴力的なまでの速さで迫ってくる。

志津の脳裏には、おどろおどろしい「辻斬り」の光景が浮かんでいた。

(逃げなきゃ……殺される、それとも捕まってどこかへ……!)

恐怖で涙が溢れそうになる。提灯の火が激しく揺れ、今にも消えそうだ。

「お欄さん、助けて……賢治さん、助けて……!」

志津は喉の奥で悲鳴を上げながら、必死に角を曲がった。あそこを曲がれば、我が家の門が見えるはずだ。


「はあ、はあ……前の人もなかなかの健脚だ」

賢治は息を切らしながら追いかけた。

(不思議だ、私の家の方向へ向かっている。近所の方だろうか?)

曲がり角で一瞬、明かりを見失いそうになり、賢治はなりふり構わず全力で駆け出した。

「ああ、門だ。我が家の門に逃げ込む気か?」


志津は、崩れるように我が家の玄関に飛び込んだ。

鍵をかける間も惜しみ、戸を内側から必死に押さえようとした。

しかし、その隙間から、何者かの手が力強く差し込まれた。

「あ……ああっ!」

志津は、手にしていた提灯を床に落とした。

溢れた光が、下から侵入者の顔を照らし出す。

そこにあったのは、冷たい闇を切り裂いてきた、執念深い追跡者の……。


「……志津? なぜそんなに震えているんだ」

志津は、その顔を見た瞬間、目を見開き、息が止まった。

それは辻斬りでも、お化けでも、ストーカーでもなかった。

自分のために、懸命に時代を変えようとしている、最愛の夫だった。

「けん……じ、さん……?」

志津は、自分が絞り出した声が誰のものかも分からなかった。

次の瞬間、彼女の膝から力が抜け、そのまま板の間に崩れ落ちた。

「志津! どうした、しっかりしろ!」

賢治が慌てて抱きしめるが、志津はただ、ガチガチと歯を鳴らし、幽霊でも見たかのような「恐怖の形相」のまま、しばらく言葉にならぬ声を上げ続けた。


ようやく落ち着きを取り戻し、事の真相を知った二人は、居間の火鉢を囲んだ。

志津は温かい白湯を飲みながら、ようやく震えを鎮めていた。

「私はてっきり、お化けか、恐ろしい辻斬りに追われているのかと……」

「すまない、志津。私はただ、君の持つ明かりがありがたくて、必死に追いかけていただけなんだ」

賢治は、志津のまだ蒼白い横顔を見て、胸を締め付けられるような思いがした。

自分が追いかけていたのは、家を守る妻だった。

そして自分が恐怖を与えていたのは、一番大切にすべき女性だった。

この滑稽とも言える取り違えは、笑い話では済まされない。

それは、この街を包む「闇」が、いかに人々の心を蝕み、疑心暗鬼に陥らせ、恐怖を植え付けているかという残酷な証拠だった。

(デモクラシーだ、講和会議だ。そんな言葉をいくら並べても、夜道で妻が夫を恐れるような世界は、まだ半分も明けていない)

賢治は、志津の肩に手を置き、静かに、しかし鋼のような硬さで誓った。

「志津、私は決めたよ」

「何を、ですか?」

「この八戸から、闇を消す。どんな裏通りでも、君が一人で安心して歩ける光を、必ず灯してみせる」

窓の外には、依然として新月の漆黒が広がっている。

しかし、賢治の瞳には、かつてないほどの強い光が宿っていた。

一月二十日。

この夜の恐怖は、八戸の電燈事業を「単なる融資」から、一人の男の「生涯の使命」へと変えたのであった。

読んでいただきありがとうございます。

下の★~★★★★★で評価してもらえると勉強になります。

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