新しき風
主人公 牧野 賢治
妻 牧野 志津
八戸の冷気は容赦なく家の隙間から忍び寄っていた。
志津は夜明け前から起き出し、夫・賢治に昨日念押しされた通り、家中を回って火の元を点検していた。台所の竈、居間の火鉢、そして賢治の書斎。
「振袖火事の日……」
昨晩、賢治が厳しい表情で語った江戸の悲劇を思い出し、志津は真鍮の火箸で灰を丁寧に整えた。電燈という新しい「光」がこの家を照らすようになっても、火を扱う者の慎みは変わらない。むしろ、夫が新しい時代を切り拓こうとしているからこそ、自分は古くからの家の守りを、より一層盤石にしなければならない。そんな静かな決意とともに、志津は朝の支度を整えた。
昼下がり、足りなくなった乾物や油を求めて、志津は三日町の通りへと足を向けた。
雪を踏みしめる下駄の音が、乾いた空気によく響く。街角には新聞の号外を配る鈴の音が鳴り渡り、いつも以上の活気に満ちていた。
ふと、大きな呉服店の軒先で、書生のような身なりの若者たちが数人、熱心に話し込んでいるのが目に入った。
「これからは平民の時代だ。我らが原先生の名代が、パリで世界を相手に平和を説いておられる。日本もようやく、真の民本主義……デモクラシーの夜明けを迎えるのだ!」
若者の昂った声が、冬の青空に吸い込まれていく。
「デモクラシー」
志津にとって、それはまだ耳慣れない異国の言葉だった。けれど、その響きの中に、何か新しい、芽吹くような生命力が宿っていることだけは分かった。
志津はふと足を止め、若者たちが手にしていた新聞の紙面を横目で追った。そこには、凛とした眼差しを向ける原敬首相の写真があった。
「……原先生」
志津の胸に、じんわりと温かい誇りが込み上げてきた。
原敬は、隣県である盛岡の出身だ。かつては同じ南部藩の空気を吸い、厳しい冬を越えてきた同郷の偉人。武家や華族の特権ではなく、実力と民意でこの国の頂点に立った「平民宰相」という呼び名は、志津たち地方に生きる人間にとって、自分たちの声が東京に、そして世界に届いているという証左でもあった。
「南部から、あんなに立派な方が……」
旧南部藩士族の誇り。それは、古い時代の意地ではなく、同じ風土に育った人間が世界を動かしているという、希望に近い感情だった。若者たちが叫ぶ「デモクラシー」という言葉も、原先生の功績を思えば、どこか誇らしく、そして身近なものに感じられるから不思議だった。
買い物かごを手に歩き出すと、街のあちこちに「普通選挙」や「民本主義」といった力強い文字が躍るポスターが貼られていることに気がついた。
わずか数年前まで、政治や世界情勢は、志津のような女子供には遠い、雲の上の出来事だったはずだ。それが今、こうして街角の若者の声となり、庶民の期待となって、八戸の冷たい空気を熱くさせている。
賢治が進めている電燈事業も、この熱気の一部なのだと志津は気づいた。
光が街を照らし、人々が自分の言葉で未来を語り始める。
それは、昨日までの「耐える時代」から、自分たちの手で「創る時代」への転換なのかもしれない。
家に戻り、夕餉の支度を始める頃には、八戸の空は深い群青色に染まっていた。
志津は、買ってきたばかりの油をランプに足しながら、ふと考えた。
世界がどれほど「デモクラシー」と叫ぼうとも、原先生がどれほど立派な仕事をされようとも、自分がすべきことは、冷えた体で帰宅する夫を温かく迎えることだ。
パチリ、と電燈が灯る。
その新しい光の下で、賢治が今日見てきた「世界の動静」を、自分はどう受け止めるべきか。
「ただいま」
玄関の戸が開く音がした。志津は前掛けを整え、出迎える。
「おかえりなさいませ。今日は街が、原先生の話題でもち切りでございましたよ」
賢治の外套を預かりながら、志津は街で感じた「胎動」を、一滴の雫のように夫の心へ落とした。
近代の光と、南部の誇りと、新しい時代の風。
志津は、変わらぬ火の用心を胸に刻みながら、夫と共にこの激動の海を渡っていく覚悟を、静かに、けれど確かに深めていた。
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