振袖火事
主人公 牧野 賢治
妻 牧野 志津
朝の冷気は、八戸の街を硬い氷の塊のように閉じ込めていた。
賢治は執務室の重厚な椅子に深く腰掛け、インクの匂いが残る新聞を広げた。片隅にある日付を見つめた瞬間、不意に四年前のあの日……大正四年の冬の記憶が、鮮明な映像となって蘇ってきた。
「対華二十一ヶ条要求……」
当時、日本が隣国そのものを守るため、そして東洋の安寧を盤石にするために突きつけた膨大な要求。新聞は連日、国家の威信をかけた英断だと報じ、八戸の街でも提灯行列が行われるほどの熱狂に包まれていた。
しかし、銀行員としての賢治は、その喧騒をどこか冷めた目で見つめていた。彼の頭の中にあったのは、その裏で動く巨額の軍費の出処であり、歪んでいく国際的な「信用」という名の秤であった。
(力で押し通すことは、一時の利益にはなっても、長きにわたる商いの道理には適わないのではないか……)
数字という、嘘をつかない鏡と向き合う日々の中で、賢治は国家が選んだ道の危うさを、誰にも言えぬ孤独とともに噛みしめていたのだ。
強引に奪い取る「力」の時代。しかし、今、賢治が向き合っているのはそれとは正反対の道だ。
目の前にある電燈事業の融資計画書。それは、誰かから奪うものではなく、この八戸の街に新たな価値を「創り出す」仕事である。
電燈の光が灯れば、夜の暗闇に怯える人々の心は明るくなり、夜業をする職人の手元を照らし、未来を担う子供たちが夜更けまで本を読めるようになる。
(これこそが、本当の意味での国を富ませるということだ)
賢治は、自らの指先に宿る「光の重み」を愛おしむように、計画書の束を静かに整えた。新しい時代は、武力ではなく、こうした生活の細部に宿る光の集積によって作られるべきだと、彼は固く信じていた。
ふと、窓の外から「火の用心」を触れ回る微かな声が、冬の乾燥した空気に乗って聞こえたような気がした。
今日、一月十八日は、かつて江戸の街を灰燼に帰した「振袖火事」が始まった日でもある。
「……火の恐ろしさを、誰よりも知らねばならん」
賢治は、熱を持った目元を指で押さえた。
近代の象徴たる電燈。それは、文明という名の魔法のような光だが、一歩間違えれば、かつての江戸を襲ったような悲劇を招きかねない諸刃の剣でもある。
彼は朝の訓示の際、部下たちへ向かって、いつになく厳かな声で告げていた。
「今日は振袖火事の日だ。新しい時代、新しい技術に浮き足立つ時こそ、古き火の戒めを忘れてはならない。銀行内はもとより、各自、帰宅してからも家族に火の元の用心を徹底させるように。油断こそが最大の敵だ。我々が守るべきは、数字だけではなく、この街の安寧なのだから」
仕事を終えて外に出ると、頬を刺すような寒風が吹き抜け、路面の雪がさらさらと乾いた音を立てた。
四年前の対華要求から始まった「力の誇示」の時代は、これからどこへ向かおうとしているのか。世界は、平和という名の光を本当の意味で掴み取れるのか。
賢治は、志津が待つ我が家を目指しながら、心の中で願った。
電燈の光が街を明るくし、同時に、人々が火の用心という謙虚さを持ち続けることで、この穏やかな夜が、決して災いへと変わらぬように。
「ただいま、志津。……今日は、振袖火事の日だ。火の元は大丈夫か」
玄関を開けた瞬間に香る、温かい茶の湯気と、火鉢で爆ぜる炭の懐かしい匂い。志津が「はい、抜かりございません」と穏やかに微笑むその一瞬。
この小さな「私」の安寧を守り抜くことこそが、銀行員として、一人の男として、今の自分にとっての最も尊い戦いなのだと、賢治は深く安堵の息を吐いた。
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