灰
主人公 牧野 賢治
妻 牧野 志津
奉公人たちがそれぞれの場所へ戻っていった後の街は、祭りの後のような、しんとした寂しさに包まれていた。
賢治を送り出した後の牧野家もまた、深い静寂に沈んでいる。志津は茶の間の掃除を終え、ふと、彼が昨夜遅くまで向かっていた文机に目をやった。
そこには、今朝彼がカバンに詰め込んで持っていった「あの帳簿」の残像が、まだこびりついているような気がした。
昨夜、寝所に灯した行灯の淡い光の中で、志津は見てしまったのだ。開かれた帳簿のページを埋め尽くす、真っ赤な筆致を。それはただの数字の羅列ではなく、まるで血を流しているかのような、悲痛な叫びに見えた。
(あんなに赤く、塗り潰さねばならなかったのですね……)
志津は、自分の指先をそっと見つめた。自分にできることは、せいぜい昨日のように紅白の団子を丸めることくらいだ。賢治が対峙している、街全体の命運を左右するような「赤い数字」の重みを、志津は想像することしかできない。その無力さが、冷え切った冬の空気となって胸に刺さった。
志津は首を振り、再び家事に没頭することで、募る不安を打ち消そうとした。
火鉢の灰を、金箸で丁寧に、幾筋もの美しい文様を描くように均していく。炭が爆ぜぬよう、けれど熱が絶えぬよう、細心の注意を払って。
台所では、根菜をたっぷり入れた汁物が鍋の中で静かに煮えていた。お欄さんから聞いた、古い着物を燃やして暖を取る老婆の話が頭をよぎる。
志津が行っているのは、目に見える戦いではない。けれど、火の元を清め、湯気を絶やさず、家の隅々まで温もりを行き渡らせることは、外で孤独に戦う夫を、現実の世界へと繋ぎ止めるための「命の糸」を紡ぐ作業のように思えた。
午後の光が傾き、部屋に青い影が忍び込んでくる。
志津は、賢治が「咆哮」と呼んだ、えんぶりの練習音が聞こえてくるのを待った。大地を叩くあの音が、今の彼女には、凍てつく土の下で春を信じて鼓動し続ける、何かの生命の足音のように聞こえていた。
夜、玄関の戸が重く開く音がした。
「……ただいま戻った」
賢治の声は、氷を噛み砕いたような硬さを帯びていた。
志津は急いで出迎え、彼の外套を受け取った。その布地には、外の冷気と、澱んだ街の匂いが染み付いている。受け取った指先が、一瞬で凍りつきそうになる。
「お疲れ様でございました。すぐにお食事にいたしますね。今夜は、身体の芯まで温まるお汁を仕度しました」
賢治は無言で頷き、火鉢の前に座り込んだ。
彼は、窓口で突きつけてきた「厳しい再建案」のこと、泣き崩れた店主の顔、そして自分の背負った責任の重さを、志津には語らない。志津もまた、昨夜見てしまった帳簿の赤色のことを、口に出すことはなかった。
二人の間には、温かな湯気と、えんぶりの微かな音が流れている。
賢治は熱い汁を啜りながら、ようやく少しだけ、凍りついていた眉間を緩めた。
「……美味いな」
その一言だけで、志津は救われる。
彼が外でどんなに多くの人々に「不可」を突きつけ、憎まれ、あるいは絶望を背負わされても。ここに戻れば、彼はただ一人の「賢一」であり、志津が守るべきひとつの命である。
志津は、再び灰を均した火鉢を見つめた。
明日もまた、彼は赤い帳簿を抱えて出かけていくだろう。自分はただ、その背中を見送り、この温かな灯を絶やさずに待つ。
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