藪入
主人公 牧野 賢治
妻 牧野 志津
一月十六日、木曜日。
今朝の八戸は、数日来の殺人的な「しばれ」がわずかに緩み、どんよりとした雪雲が低く垂れ込めていた。
銀行への道を歩く賢治の耳に、いつもとは違う賑やかな声が届く。駅の方へ向かう一団があった。藪入りで実家へ帰る奉公人たちだ。
風呂敷包みを大事そうに抱えた若い男衆や、不慣れな装いで少し背伸びをしたような娘たちが、白い息を吐きながら足早に通り過ぎていく。その顔には、半年ぶりの故郷や家族に会えるという、隠しようのない期待が滲んでいた。
「……藪入りか」
賢治は足を止め、彼らを見送る商店の主人の後ろ姿を見た。
その主人は、笑顔で手を振っているものの、その肩はどこか重く、力なく落ちているように見えた。志津が昨日言っていたお欄さんの話を思い出す。古い着物を燃やして暖を取り、娘を奉公に出さねばならないほどの困窮。
彼ら奉公人に持たせたささやかな小遣いや土産代が、今の店主たちにとってどれほど血を吐くような工面であったか。銀行員である賢治には、その笑顔の裏にある「帳簿の赤字」が透けて見えてしまうのだった。
銀行の重い鉄扉を開けた瞬間、昨日の「凪」が嘘のような喧騒が賢治を迎え入れた。
小正月明けの初日、窓口には朝から人々が詰めかけている。だが、預金通帳を手にしている者は少なく、多くが顔を赤らめ、あるいは青褪めながら、奥の相談室を伺っていた。
「牧野さん、後生だ。せめてあと一月、支払いを待ってはもらえないだろうか」
賢治の前に座ったのは、長年この街で荒物屋を営んでいる老店主だった。
差し出された帳簿の手垢の汚れは、彼がどれほど必死に商いをしてきたかの証左だ。しかし、そこに並ぶ数字は無情だった。戦後恐慌の波と、この記録的な大寒波。客足は途絶え、仕入れ値ばかりが高騰している。
「このままでは、店を畳むしか……。そうなれば、今日笑って帰っていった奉公人たちも、もう戻る場所がなくなってしまう」
老店主の震える指先を見つめながら、賢治は自分の指先に残る感触を思い出していた。昨夜、志津と一緒に丸めた、みずき団子の柔らかな弾力。あの紅白の色彩が、この殺風景な応接室の空気とあまりにかけ離れていることに、眩暈に似た感情を覚える。
賢治は眼鏡を外し、眉間を押さえた。
銀行員として、この回収の見込みの薄い貸付を認めるわけにはいかない。それは組織としての死を意味する。しかし、このペン一本で、藪入りで浮き立つ家族の再会を、最後の一回にしてしまうことが果たして正解なのだろうか。
窓の外では、またちらほらと雪が舞い始めていた。藪入りを楽しんでいる若者たちの笑い声が、厚い壁を隔てて微かに響いてくる。
夕刻、ようやく客足が途絶えた執務室で、賢治は一人、ペンを走らせていた。
結局、彼が出した答えは、一律の救済ではなく「条件付きの猶予」だった。徹底的な経費の削減と、新たな担保の積み増し。それは店主にとって、針のむしろに座るような厳しい再建案だ。
「甘いと言われるだろうな……」
独り言は、冷え切った部屋に虚しく消えた。
支店長からの叱責は免れないだろう。数字は嘘をつかない。だが、数字だけでは説明できない「街の体温」を、賢治はどうしても切り捨てることができなかった。
銀行を出ると、辺りはすでに夜の闇に沈んでいた。
どこからか、トントン、カラカラと、控えめながらも力強い音が聞こえてくる。「えんぶり」の練習の音だ。
大地を叩き、眠れる神を呼び起こして豊作を願うその響きは、不景気と寒波に喘ぐ八戸の街の、最後の咆哮のようにも聞こえた。
賢治は外套の襟を立て、音のする方とは逆の、志津が待つ家へと歩き出す。
カバンの中には、検討を重ねて真っ赤に書き込まれた帳簿が入っている。
それは明日からまた始まる、果てしない戦いの記録だった。
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