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月待ちの灯(あかり)  作者: しゅう


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常撫子(とこなででしこ)2

主人公 牧野まきの 賢治けんじ

牧野まきの 志津しづ

娼館の女 おおらん

志津は小さく咳払いを一つすると、目を細めて遠い記憶を辿った。

「そうでもないですよ。明治の終わり頃でしたね……」


(志津の回想)

お見合いの席は、両家の体面を保つために設えられた、座敷の広間だった。

志津は、緊張しつつも、相手の家の都合で山での生活から呼び戻されたという青年――後の夫、賢治――の登場を待っていた。

やがて、障子の向こうから、周囲の空気を一瞬で凍らせるような、奇妙なざわめきと共に彼が現れた。

そこにいたのは、世間に言う『山男』そのものだった。


身に纏うのは、毛皮と分厚い布。まるで、そのまま雪深い山から下りてきたような、マタギにも似た野趣溢れる姿だった。土の匂い、草木の香り、そして何日も着替えていないであろう衣服のざらつきが、上品な広間の香と調和することなく、空間を支配した。

賢治は『よっしゃ!』と心で叫んだであろう、その横柄とも取れる賢治の表情は、どこか諦めきった、不器用な抵抗をあらわにしていた。志津はその意図を瞬時に察し、込み上げてくる笑いを抑えられなかった。


(この人は、私に嫌われようとしているのだわ。)


その滑稽なほどの正直さと、周囲の大人たちの顔面蒼白な狼狽ぶりの対比があまりにも鮮やかで、志津は思わずクスクスと笑ってしまった。それは、拒絶ではなく、彼を理解した者のみが許される、温かい笑いだった。


家同士は、当然ながら大騒ぎになった。賢治の家族はひたすら謝罪し、志津の家族は侮辱されたと顔色を変えた。

だが、騒動の中心で、賢治はただそこに立っている。世俗の目や形式など、どうでも良いとばかりに、自然体で悠然としていた。その姿は、周囲の慌てふためきの中で、まるで夜の森の木々が月明かりを浴びて輝くように見えた。


志津には、その賢治の周囲に、確かに清明な気のようなものが感じられた。それは、師匠から山で学び、自然と対峙することで得た「人知を超えた、本質的な自由さ」の証だったのだろう。

(この人は、私がこれまで出会った誰とも違う。この、世間から離れた純粋な魂こそ、私が探していたものだ。)

騒動は収束に向かい、誰もが破談を確信した。しかし、志津は騒動の渦中で、静かに意思を固めていた。

「わたくしは、この方と結ばれたいと思います。」

読んでいただきありがとうございます。

ドタバタになってしまいました。

次回で『常撫子』終話となります。

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