小正月
主人公 牧野 賢治
妻 牧野 志津
娼館の女 お蘭
小正月の朝は、まだ夜が明けないうちから竈に火を入れることから始まった。
パチパチと薪が爆ぜる音に混じって、鍋の中で小豆がコトコトと踊る音が聞こえてくる。志津は湯気に包まれながら、丁寧に灰汁を掬い取った。
「お待たせいたしました」
卓に運ばれたのは、小豆の赤い色が鮮やかに染まった熱いお粥だ。
「……ああ、温まるな」
賢治が一口啜り、ふうと長い息を吐いた。昨日まで「凍れ光」の中で張り詰めていた彼の肩が、粥の熱によって少しずつ解けていくのがわかる。
「小豆の赤は邪気を払うと言います。これで、この冬の厳しさも追い払えますように」
志津の言葉に、賢治は静かに頷き、もう一口粥を運んだ。昨日、早く帰宅した彼が手伝ってくれた「みずき団子」が、朝の光を浴びて紅白の艶を放っている。家の中にだけ、小さな春が先んじて訪れたような、穏やかな朝のひとときだった。
賢治を送り出し、後片付けを終えた頃、玄関先で「ごめんくださいませ!」という弾んだ声が響いた。
「お志津さーん! しばれるねぇ、本当に!」
雪を払いながら入ってきたのは、お欄だった。彼女が上がった途端、しんと静まり返っていた牧野家の空気が、一気に春のような賑やかさを帯びる。
「まあ、お欄さん。よくこの寒さの中を」
「こればかりは歩かないと、身体が凍って石になっちゃいそうなんだもの。あら! 綺麗に飾ったわねえ、みずき団子。お志津さんの丸め方は、お上品で見ていて飽きないわ」
お欄は茶の間に飾られた紅白の枝を熱心に眺め、それから志津が差し出したあずき粥を「これこれ、これが楽しみだったのよ」と嬉しそうに啜った。
「そういえば聞いた? 昨日のあの凍れ光。あんなに寒くて、銀行には人が少なかったんですってね。賢治さん、昨日は早く帰れたんじゃない?」
「ええ、おかげさまで。久しぶりに二人で団子を丸める時間が持てました」
「それは良かった。でもねお志津さん、街の方は本当に、胸が痛むような話ばかりよ」
お欄は粥の熱い湯気の向こうで、少しだけ声を落とした。
「裏長屋のあのお婆さん、薪が買えなくて、古い着物を少しずつ燃やして暖を取ってるって。それに、浜の方じゃ不景気で船が出せなくて、まだ幼い娘さんを遠くの町へ奉公に出す相談があちこちでされてる。男たちは『数字が合わない』とか『不渡りだ』とか言って頭を抱えてるけど、私たち女にしてみりゃ、今夜食べるものがあるか、子供が凍えずに眠れるかってことの方が、よっぽど大事な数字なのよね」
志津は静かに耳を傾けた。お欄の話すことは、賢治が銀行で対峙している「絶望」の、もうひとつの生々しい姿だった。
「男の人は、街全体を救おうとして大きな天秤を支えてるけれど、私たちは目の前の一杯の粥と、この家の中の温もりを守るしかない……。それが、いつか街を温めることになると信じるしかないのですね」
「そうよ。だからこうして小正月に粥を炊いて、紅白の団子を飾るの。絶望に飲み込まれないように、『うちはまだ春を忘れてないよ』って、神様に教えなきゃいけないんだから」
お欄は再び快活に笑い、粥を綺麗に平らげた。その屈託のない笑い声と、湯気とともに流れる切実な世間話。
志津は、お欄の賑やかなお喋りを聞きながら、自分一人の祈りとはまた違う、土の匂いのするような「生きていく逞しさ」を彼女から受け取っているような気がした。
お欄が「さあ、お洗濯が凍る前に帰らなくちゃ! 明日の藪入りの準備もあるしね」と嵐のように去っていった後、家の中には再び静寂が戻った。
だが、その静寂は今朝までの刺すような冷たさではない。お欄が置いていった活気と、あずき粥の余熱が、志津の胸を確かに温めていた。
志津は一人、自分用にお代わりの粥を少しだけよそい、火鉢の前に座った。
窓の外を見れば、空はまだ冬の色を湛えている。けれど、家の中には紅白の団子が咲き、お粥の赤が身体を巡っている。
お欄が教えてくれた、街の片隅で震える人々の暮らし。志津にできることは、彼らに直接手を差し伸べることではないかもしれない。けれど、賢治が戦い、守ろうとしているこの街の「命」を、一番近くで慈しみ続けることはできる。
志津は、みずき団子の赤い粒をそっと指でなぞった。昨夜、賢治の大きな手が触れたその枝は、硬い冬を耐え抜いたあとの、力強いしなりを帯びていた。
この小さな紅白の花が、街全体の絶望を溶かす灯火の一部になることを願いながら。
志津は最後の一口をゆっくりと噛み締め、明日から始まる「藪入り」の賑わいと、その裏にある現実を、静かに受け入れる覚悟を決めた。
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