休日出勤
主人公 牧野 賢治
妻 牧野 志津
日曜日。本来ならば、昨日の鏡開きの余韻に浸りながら、志津と穏やかな朝を過ごすべき日である。しかし、賢治の枕元には、昨夜から解けない「数字の呪縛」が横たわっていた。
「……すまない、少し片付けなければならない仕事が残っていてな」
朝食の席でそう告げた賢治に、志津は一切の不満も見せず、「はい」とだけ答えて台所へ立った。その背中に向け、賢治は心の中で深く頭を下げた。
銀行の重い鉄扉を開けると、そこには外気よりもさらに鋭く冷え切った静寂が待ち構えていた。
日曜日の銀行は、窓口の喧騒も、行員たちの算盤の音も絶え、ただ古い石造りの建物特有の湿った冷気が廊下に沈殿している。賢治は自分のデスクに座り、外套を着たまま、山積みにされた書類の束に手を伸ばした。
これらは明日、週明けの朝一番に決断を下さねばならない「生死のリスト」だ。
昨日、志津が祈りを込めて割った鏡餅。その白く輝く破片を思い出しながら、賢治は万年筆を握り直した。
ペン先が紙を走る音だけが、天井の高い執務室に虚しく響く。
賢治が向き合っているのは、ただの帳簿ではない。そこにあるのは、八戸の街で必死に暖簾を守る店主たちの「人生」そのものだ。
(この店の融資を止めれば、来月には路頭に迷う家族が出る。だが、ここで貸し続ければ、銀行そのものの屋根が揺らぎ、さらに多くの預金者を路頭に迷わせることになる……)
算盤を弾く指が、寒さで感覚を失い始める。
情に流されれば理を失い、理に固執すれば人を殺す。この「中道」を見出すための戦いは、誰にも相談できない、孤独で冷徹な作業だった。
ふと顔を上げると、窓の外には冬の明るい日差しが注いでいた。
通りを凧を手にした子供らが、楽しげな声を上げて通り過ぎていく。彼らの自由さと、自分が今縛られている重い鎖。その対比に、一瞬、目眩にも似た寂寥感が賢治を襲った。
その時、足元に置いていた柳行李の包みが目に入った。今朝、志津が「お昼に召し上がってくださいね」と、微笑んで持たせてくれたものだ。
時計の針が正午を回り、空腹というよりは指先の痺れが限界に達した頃、賢治は万年筆を置いた。
暖房のない執務室は、まるで巨大な氷室のようだ。賢治はかじかむ手で、足元から志津が持たせてくれた柳行李を引き上げた。
藍色の風呂敷を解くと、竹の編み目から微かに、しかし確かな「家庭の匂い」が立ち上った。
蓋を開けると、そこには整然と詰められた、志津の真面目な性格そのもののような色彩が並んでいた。
まず目を引いたのは、昨日の新巻鮭の皮を細かく刻み、甘辛く炒りつけたものがたっぷりと混ぜ込まれたご飯だ。艶やかな米粒の間で、香ばしい鮭の香りが食欲を刺激する。
(……皮まで無駄にせず、こうして役立ててくれたのか)
賢治は、添えられていた塗り箸を手に取り、一口運んだ。
お弁当は、当然ながら冷え切っている。米は少し硬くなり、おかずの卵焼きも、昨夜の残りであろう煮物も、外気と同じ温度だ。
しかし、噛みしめるほどに、その奥から志津が今朝早くから火を使い、水仕事をして整えてくれた「熱」が伝わってくるようだった。
脂の乗った鮭の皮のコクと、ピリリと効いた生姜の風味が、凍えきった身体に活力を送り込んでいく。
おかずの隅に添えられた、ほんの少しの甘い豆。それをお汁粉の代わりに口に放り込むと、孤独な戦場に志津が隣に座っているかのような錯覚さえ覚えた。
(私は一人ではない。この弁当の向こうに、この温もりを待っている人がいる。そして、この街の至る所に、こうして弁当を詰め、帰りを待つ家族がいるのだ)
ただの「数字」の羅列にしか見えなかった融資先の名前が、この一口で血の通った「家庭」へと姿を変えた。
冷たい弁当のはずなのに、喉を通るたびに胸の奥がじんわりと熱くなる。
賢治は、誰に見られることもない静寂の中で、一粒の米も残さぬよう、丁寧に箸を進めた。それは、明日への決断を下すための、静かな儀式でもあった。
午後の作業を終え、賢治が銀行の重い扉を閉めた頃には、空は薄紫色に暮れ始めていた。
ふと空を見上げると、風に煽られながらも必死に一点に留まろうとする凧が一つ、夕闇の中に白く浮かんでいた。糸の先には、もう姿の見えぬ子供たちの執念が繋がっているのだろう。
「……明日も、風は冷たいか」
賢治は外套の襟を立て、家路を急いだ。
今日、一通の書類に下した決断は、ある一家の春を奪うものだったかもしれない。だが、志津が持たせてくれた弁当の温もりが、彼に「それでも、街という大きな船を守らねばならない」という残酷なまでの誇りを思い出させていた。
家が見えてくると、窓から漏れる橙色の灯が雪道に優しく落ちていた。
その灯を見た瞬間、賢治の顔から「銀行員」としての険しい仮面が剥がれ落ちた。
「ただいま」
扉を開ければ、そこには昨日よりもさらに温められた粕汁と、自分を待つ志津の微笑みがある。
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