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月待ちの灯(あかり)  作者: しゅう


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蔵開き

主人公 牧野 賢治

妻 牧野 志津

八戸の街では、大きな商家が「蔵開き」を行い、一年の商売の無事を祈る威勢の良い声が寒空に響いていた。しかし、牧野家の板の間で家計簿を広げる志津の心境は、決して晴れやかなだけではなかった。

昨夜、帰宅した賢治の背中には、昨日までの「正月」の柔らかな余韻が一切消え失せていた。外套の肩に積もった雪は、まるで彼が外の世界で背負ってきた非情な現実の重みそのもののように見え、志津が差し出した温かい手ぬぐいを受け取る彼の指先は、芯まで凍りついたように白かった。


「……少し、引き締めなければなりませんね」

独りごちながら、志津は算盤を引き寄せた。パチパチという乾いた音が、静まり返った部屋に規則正しく響く。

志津は、奥の棚に収められた乾物や米の残量を、一つずつ指先でなぞるように確認していった。外の景気が冬枯れのように厳しいのであれば、この家の中はそれ以上に堅実な「砦」でなければならない。銀行員という職責上、賢治が「雨の日に傘を取り上げる」ような冷徹な判断を下さねばならない場面があることを、志津は十分に察していた。


それは、商家のような金銀の福笹が舞う華やかな蔵開きではない。だが、牧野家という城を支えるための、最も誠実で切実な、志津なりの「蔵開き」であった。算盤の玉を弾くたびに、彼女の心の中で「家を守る」という覚悟が、鏡餅のように白く、堅く、形作られていった。


台所のはりに吊るされていた新巻鮭も、この数日で随分と小さくなっていた。

正月を彩ったこの塩引き鮭も、今日という節目で一度、吊るしから下ろして片付けなければならない。志津は踏み台に乗り、煤けた縄を切って鮭をまな板の上へと横たえた。


(さて、この身をどうしたものでしょうか……)

志津は、手袋を脱いだばかりの赤らんだ指先で、カチカチに締まった鮭の皮をなぞった。

これまでは厚く切り分けては焼き、賢治の膳に供してきた。焼きたての香ばしい皮と、塩気の効いた身は確かに美味だが、こうも毎日続けば、流石の賢治も箸が鈍くなるだろう。


志津は腕組みをして、台所の限られた食材を見渡した。

大根、人参、牛蒡。そして土間に転がっているジャガイモ。

これらを鮭の身と一緒に煮込むのはどうか。しかし、ただの塩味では芸がない。そこで志津の目が、棚の隅に置かれた小さな壺に止まった。

「……酒粕がありましたね」

酒粕をたっぷりと使い、根菜の甘みと鮭の旨みを閉じ込めた粕汁。それも、ただの汁物ではない。鮭の骨から出る出汁をじっくりと抽出し、とろみがつくほどに煮込めば、八戸の芯まで凍るような冷気を追い払う絶好の御馳走になるはずだ。


志津は包丁を握り直し、堅い鮭の身に刃を当てた。

「身は粕汁に。皮は細かく刻んで、後で香ばしく炒りつけてお茶請けにしましょうか」

限られた一つの食材を、無駄なく、飽きさせず、そして何より「滋養」へと変えていく。

それは、昨今の不景気の中で、数字に追われる賢治に「家庭という名の安らぎ」を与えるための、志津なりの戦術でもあった。まな板の上で跳ねる包丁の音は、先ほどの算盤の音と同じように、家を守るための確かなリズムを刻んでいた。


午後の柔らかい日差しが板の間に差し込む頃、志津は神棚から下ろした鏡餅と対峙していた。

正月三が日を過ぎ、厳しい寒風に晒され続けた餅は、もはや食べ物というよりは白く滑らかな石の塊のように、冷たく、頑なに締まっている。

古来より、鏡餅に刃を入れることは忌まわしいものとされてきた。「切る」という言葉が縁起を損なうためだ。だからこそ、この堅牢な意志のような餅を分かち合うには、己の腕で打ち砕くほかない。志津は水で清めた木槌を右手に握り、大きく息を吸い込んだ。

(開け、開け……)

心の中で念じ、一気に槌を振り下ろす。

――乾いた「コン」という高い音が、静まり返った家の中に鋭く響いた。

しかし、餅はびくともしない。表面に微かな白い粉が舞っただけで、その頑固なまでの硬さは志津の手首に重い衝撃となって跳ね返ってきた。

志津は再び槌を構え直した。その一撃一撃に、彼女は無意識のうちに祈りを込めていた。

それは、昨夜の賢治の沈黙を、彼が背負わされた非情な責務を、そして街を覆う不景気の霧を、すべて打ち破るための祈りだった。どうか、より大きな未来を開くための「種」となりますように。

三度、四度。呼吸を整え、最も脆いであろう中心を見定めて振り下ろした渾身の一撃。

「――っ!」

パキン、という小気味よい音と共に、石のようだった餅が鮮やかに砕け散った。

飛び散った大小の欠片は、不揃いながらも、内側から覗く真新しい白さが目に眩しい。それは、ようやく重い殻を脱ぎ捨てて芽吹こうとする、新しい春の兆しのようにも見えた。


「……開きましたね」

志津は額に滲んだ汗を拭い、砕けた餅の破片を一つずつ丁寧に拾い上げた。

どれほど堅く凍てついた現実であっても、逃げずに叩き続ければ、必ずその心臓部まで熱は届く。砕けた餅の断面を見つめながら、志津は確信していた。夫が今、外で戦っている孤独な戦いも、いつか必ずこの餅のように「開運」へと繋がると。


夕刻、牧野家の台所は、昼間の静寂が嘘のような芳醇な香りに満たされていた。

かまどの上では、二つの鍋がそれぞれ主役を演じている。一つは、骨から出た深い旨味と酒粕の華やかな香りが立ち上る鮭の粕汁。そしてもう一つは、志津が朝から丁寧にアクを抜き、コトコトと煮込んだ小豆の鍋だ。

志津は、先ほど打ち砕いたばかりの餅を網に乗せ、熾火おきびでじっくりと炙った。

カチカチだった餅の表面が熱に負け、ぷうっと白く膨らんで焦げ目を纏い始める。それを、艶やかに炊き上がった小豆の中へと静かに沈めた。

「……良い塩梅ですね」

お椀に注がれたお汁粉からは、真っ白で濃密な湯気が立ち上る。

それは、昨日賢治が直面した「冷徹な数字の世界」とは正反対の、優しく、甘く、すべてを包み込むような命の温度だった。志津は、台所の窓に白く結露した水滴を指で拭い、暗闇が支配し始めた街の向こうに視線を送った。


やがて、玄関の引き戸が重く開く音がした。

「……ただいま戻りました」

賢治の声は、昨日にも増して掠れ、疲弊しきっていた。氷点下の外気に晒され、心まで凍てついたままの足取り。

「お帰りなさいませ。」

志津はすぐさま駆け寄り、冷え切った外套を受け取った。そして、何も言わずに彼を食卓へと促した。

目の前に差し出されたお汁粉。その立ち上る湯気を浴びた瞬間、賢治の強張っていた肩の力が、目に見えて抜けていく。

一口、汁を啜り、柔らかくなった餅を口にした賢治が、ふっと小さく吐息を漏らした。

「……温かいな」

その一言に、志津はすべてが報われる思いがした。

「今日は鏡開きですから。きっと明日からは、良い風が吹きますよ」

志津は、粕汁の鍋から溢れる豊かな香りを添えて、微笑んだ。

外の世界がどれほど非情で、どれほど凍てつく吹雪に閉ざされていようとも。この扉の内にさえ、氷を溶かす火と、堅い餅を甘く解きほぐす湯気があれば、人はまた立ち上がれる。


賢治の頬に赤みが戻り、その瞳に明日を睨む静かな光が宿るのを、志津は火の粉の舞う竈の前で見守り続けた。

一月十一日。鏡餅は開かれ、牧野家には再び、春を待つための確かな温度が灯っていた。

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