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月待ちの灯(あかり)  作者: しゅう


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十日戎

主人公 牧野 賢治

妻 牧野 志津

八戸の街は、朝から「十日戎とおかえびす」の熱気に浮かされていた。

神社の参道から続く通りには、金銀の飾りをつけた福笹を担ぐ人々が溢れ、「商売繁盛、笹もってこい」という威勢の良い掛け声が寒空に響き渡っている。

賢治はその喧騒を縫うようにして、一人、銀行へと足を向けていた。行き交う商人たちの顔には、不景気の影を払拭しようとする必死な笑みが張り付いている。

彼らにとって、この祭りは一縷の望みであり、神への祈りだ。しかし、賢治の胸にあるのは、神頼みでは解決できない冷徹な事実だけだった。

銀行の門をくぐれば、そこは祈りの通じない世界だ。昨夜、志津が整えてくれた清潔なシャツの襟を正し、賢治は深く息を吐いた。

彼にとっての「福」とは、神から与えられるものではない。目の前の帳簿に記された数字を正しく読み解き、時には非情な決断を下すことで、街の経済という大きな器を守り抜くこと。その孤独な責任感だけが、彼の足取りを支えていた。


「牧野さん、そこをなんとか……。えべっさんの日だ、縁起良く頼みますよ」

応接室の重苦しい空気の中で、製材所の店主は震える声で懇願した。

使い古された羽織の袖口は綻び、テーブルの上に置かれた手は、寒さのせいか絶望のせいか、小刻みに揺れている。昨日、志津が街で耳にした噂は真実だった。この店主の背後には、何十人という従業員とその家族の生活がぶら下がっている。

賢治の手元には、再建の見込みが極めて低いことを示す決算書があった。

「……制度上、これ以上の追加融資は、かえって御社を苦しめることになります」

氷のような言葉を口にする。相手の顔に絶望が広がるのを見るのは、何度経験しても慣れるものではない。

(晴れた日に傘を貸し、雨の日に取り上げる……か)

自嘲の念が脳裏を掠める。店主の目は、必死に「傘」を求めている。だが、預金者から預かった大切な資金という屋根を守るためには、今ここで傘を引かねばならない。

万年筆を持つ指先が、一瞬、迷いに震えた。その時、懐の中から志津が忍ばせてくれた懐炉の熱が、じんわりと伝わってきた。

その微かな暖かさが、賢治に「情」に流されない強さを与えた。彼は覚悟を決め、冷徹な筆致で拒絶の回答を記した。それは、一人の人間としての心を殺し、銀行員としての職務を全うする、悲痛な儀式だった。


業務を終え、行員たちが去った後の事務室は、耳が痛くなるほどの静寂に包まれていた。

窓の外からは、遠く祭りの最後を飾るお囃子の音が、風に乗って微かに聞こえてくる。賑やかな日常の裏側で、賢治は今日、一つの「灯」を消す決断をした。その重みが、脱ぎ捨てた外套よりも重く肩にのしかかる。

机の上に残された万年筆を見つめ、賢治は独りごちた。

「これで、良かったのだろうか……」

答えは出ない。だが、自分が泥を被ることでしか守れない「明日」がある。

賢治は志津の待つ我が家を想った。彼女が守ってくれているあの暖かな場所があるからこそ、自分は外で「氷」になれるのだ。

「商売繁盛」を願う声が消え、夜が深まっていく。

賢治は書類を丁寧に整理し、一つ、深く頷いた。明日もまた、冷酷な数字の海へと漕ぎ出さねばならない。だが、懐にある懐炉の余熱が、彼の心までは凍らせないよう、静かに守り続けていた。

読んでいただきありがとうございます。

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