宵えびす
主人公 牧野 賢治
妻 牧野 志津
朝、志津が台所に立った時、最初に耳にしたのは静寂を切り裂くような「ミシリ」という音だった。水瓶の表面に張った氷が、建物の軋みに呼応して鳴ったのだ。
志津は火箸を手に取り、その厚い氷を叩き割る。砕けた氷の破片が水しぶきと共に飛び散り、頬に当たると、それだけで皮膚を削り取られるような痛みが走った。
井戸から汲み上げたばかりの水に手を浸した瞬間、感覚は「冷たい」を通り越し、無数の鋭利な針で骨の髄まで突き刺されるような激痛へと変わる。志津は思わず息を止めた。
指先は瞬く間に赤紫に腫れ上がり、関節は鉛を流し込まれたように重く、言うことを聞かなくなる。それでも彼女は、手を休めない。泥のついた大根を掴み、凍りついた表面を棕櫚のたわしで力強く擦る。
水の中で指の感覚が消え、まるで自分の手ではない「物」を動かしているような奇妙な感覚に陥る。だが、この麻痺していく痛みこそが、外で「数字の氷」と戦っている賢治を支えるための、志津自身の洗礼であった。
(あの人は、これよりも過酷な風に吹かれているのですから)
志津は感覚の失せた手で、丁寧に、だが峻厳な面持ちで野菜を洗い清めていく。台所の吐息は白く凍り、足元からは床下の冷気が這い上がってくる。この極寒の孤独な作業こそが、牧野家という城を守るための、朝の儀式であった。
買い出しのために外へ出れば、街は「宵えびす」の浮ついた熱気に包まれていた。いつの頃から始まったのかは定かではなかったが、商売根性の巧みさは、この街を活気づかせている。
商売人たちが福笹を手に、景気の良い声を張り上げている。しかし、流行りもの好きで耳の早い彼らの会話の端々には、鋭い棘が隠されていた。
「聞いたか、あそこの製材所、ついに首が回らなくなったらしいぜ」
「銀行も正月早々、厳しいもんだ。一度雨が降りゃ、傘も貸してくれねえ」
志津は、そのざわめきを背中で聞きながら歩を早める。昨夜、賢治が持ち帰ったあの深い疲弊と、街に流れる不穏な噂。それらが志津の中で一つの形を成していく。
世間が商売繁盛を神に祈る裏で、現実の歯車は容赦なく弱者を踏み潰そうとしている。その非情な世界で、賢治は独り、傘を取り上げる側の役割を演じなければならないのだ。
家に戻り、再び台所に立つ。志津は冷え切った身体を震わせながら、竈の前に座り込んだ。
火打ち石を打ち、細かな柴に火を移す。最初は弱々しかった火の粉が、志津の送る風を受けて、次第に鮮やかな朱色へと育っていく。
「……っ、ふう」
凍りついていた空気が、火の爆ぜる音と共に少しずつ緩み始める。
鍋に張った水から湯気が立ち上り、刻んだ根菜が躍りだす。牛蒡の土の香りと、大根の甘い匂い。火を焚べ続けているうちに、凍傷寸前だった志津の指先に、じわじわと熱が戻ってきた。
それは、痛みを伴うほどの熱だった。感覚が蘇るにつれ、氷水で痛めた箇所がジンジンと脈打つ。だが、その「熱」こそが、今この家が生きている証なのだと志津は思う。
竈の火に照らされた志津の横顔には、祈るような静けさがあった。神社で福笹を振るう商売人たちの祈りとは違う。自分の手で火を熾し、自分の手で糧を作り、愛する者が帰る場所を暖めて待つ。その愚直なまでの献身だけが、今の彼女にできる唯一の「信仰」であった。
夕刻、鍋の蓋がコトコトと鳴り、台所全体が救いのような暖かさに包まれる。
志津は、真っ赤に熾った炭を火鉢へと移しながら、月が昇るのを待った。
外は再び吹雪くかもしれない。だが、この扉を開ければ、そこには氷を溶かす火がある。
そう信じて、志津は最後の一銭まで、この家の「温度」を守り抜く決意を固めるのであった。
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