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月待ちの灯(あかり)  作者: しゅう


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62/80

算盤

主人公 牧野 賢治

妻 牧野 志津

八戸の朝は、肺の奥まで凍りつかせるような鋭い冷気に包まれていた。

昨日までの「七草」の淡い残り香はどこへやら、家の外は既に、剥き出しの冬が支配している。賢治は、志津が火鉢の灰の中で温めておいてくれた懐炉かいろを懐に忍ばせ、重い外套の襟を立てた。

「行ってくる。……今夜は、少し遅くなるかもしれん」

「承知いたしました。お気をつけて」

志津の静かな見送り。昨日、彼女がお蘭と二人で鍋を空にしたことなど微塵も感じさせない、いつも通りの凛とした佇まいだ。その揺るぎなさが、これから数字の戦場へ向かう賢治にとって、何よりの守り刀であった。


門を出ると、路面は黒光りするほどに凍りついている。一歩間違えれば足元を掬われるその危うさは、今の地方経済の状況そのものだと賢治は自嘲気味に思った。

銀行の重厚な扉を開けた瞬間、暖房の熱気と共に、正月休みを終えた職員たちの焦燥感が肌に触れる。机の上に積み上げられた書類の山。それは、華やかな年始の裏側で、止まることなく膨らみ続けていた「現実」の重みであった。


「牧野さん、例の製材所の件ですが……」

部下が持ってきた決算書を、賢治は鉄のような眼差しで追う。

昨夜までの穏やかな夫の顔は、ここにはない。銀行という場所において、情は時に毒となる。賢治は算盤の玉を弾き、冷徹に数字を弾き出した。

(景気は、見かけほど良くはないな……)

料亭で名士たちが語っていた景気の良い大言壮語は、帳簿の上では、霧散するように消えていく。不渡りの懸念、遅延する利払い、そして、必死の面持ちで頭を下げる中小の店主たち。

「銀行は、晴れた日に傘を貸し、雨の日に取り上げると言われますが……」

店主の一人がこぼした言葉が、賢治の胸に鋭く突き刺さる。だが、預金者の大切な血汗けっかんを守るためには、甘い判断は許されない。賢治は、凍えた指先に息を吹きかけながら、深夜近くまで数字の海と格闘し続けた。

一銭の重みを説いた志津の言葉が、脳裏を掠める。

自分がここで下す一つ一つの判断が、何百、何千という家庭の「一銭」に直結しているのだ。その責任の重さが、外套よりも重く肩にのしかかる。


仕事を終え、銀行を出る頃には、夜の帳は完全に下りていた。

空からは、粉雪が舞い始めている。昼間の神経を削るような仕事のせいで、賢治の身体は芯から冷え切っていた。

凍てついた街路を、一歩、また一歩と踏みしめながら、賢治は深く息を吐いた。白い息が、街灯の光に照らされて揺らめく。夜空は月が満月の近づこうとしている。薄い雲と粉雪が月を隠し空一面をほの白く映し出していた。


(ようやく、帰れるな)

角を曲がった先、いつもの場所に我が家の灯りが見えた。

玄関を開けると、三和土たたきに広がる暖かな光。

奥からは、賢治の帰宅を察した志津が火鉢の炭を整える、微かな音が聞こえてくる。

「お帰りなさいませ、賢治さん。お疲れ様でございました」

志津が差し出した温かい手ぬぐいを受け取った瞬間、賢治の顔からようやく「銀行員」の仮面が剥がれ落ちた。

「ああ。……今夜の寒さは、格別だったよ」

火鉢の熾火おきびが、冷え切った指先をじんわりと解かしていく。

厳しい日常という戦場から戻り、この灯りに守られて、また明日への活力を蓄える。

賢治は、志津が淹れてくれた香ばしい番茶を啜りながら、自分が守るべき「日常」の輪郭を、改めて深く胸に刻むのであった。

読んでいただきありがとうございます。

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