算盤
主人公 牧野 賢治
妻 牧野 志津
八戸の朝は、肺の奥まで凍りつかせるような鋭い冷気に包まれていた。
昨日までの「七草」の淡い残り香はどこへやら、家の外は既に、剥き出しの冬が支配している。賢治は、志津が火鉢の灰の中で温めておいてくれた懐炉を懐に忍ばせ、重い外套の襟を立てた。
「行ってくる。……今夜は、少し遅くなるかもしれん」
「承知いたしました。お気をつけて」
志津の静かな見送り。昨日、彼女がお蘭と二人で鍋を空にしたことなど微塵も感じさせない、いつも通りの凛とした佇まいだ。その揺るぎなさが、これから数字の戦場へ向かう賢治にとって、何よりの守り刀であった。
門を出ると、路面は黒光りするほどに凍りついている。一歩間違えれば足元を掬われるその危うさは、今の地方経済の状況そのものだと賢治は自嘲気味に思った。
銀行の重厚な扉を開けた瞬間、暖房の熱気と共に、正月休みを終えた職員たちの焦燥感が肌に触れる。机の上に積み上げられた書類の山。それは、華やかな年始の裏側で、止まることなく膨らみ続けていた「現実」の重みであった。
「牧野さん、例の製材所の件ですが……」
部下が持ってきた決算書を、賢治は鉄のような眼差しで追う。
昨夜までの穏やかな夫の顔は、ここにはない。銀行という場所において、情は時に毒となる。賢治は算盤の玉を弾き、冷徹に数字を弾き出した。
(景気は、見かけほど良くはないな……)
料亭で名士たちが語っていた景気の良い大言壮語は、帳簿の上では、霧散するように消えていく。不渡りの懸念、遅延する利払い、そして、必死の面持ちで頭を下げる中小の店主たち。
「銀行は、晴れた日に傘を貸し、雨の日に取り上げると言われますが……」
店主の一人がこぼした言葉が、賢治の胸に鋭く突き刺さる。だが、預金者の大切な血汗を守るためには、甘い判断は許されない。賢治は、凍えた指先に息を吹きかけながら、深夜近くまで数字の海と格闘し続けた。
一銭の重みを説いた志津の言葉が、脳裏を掠める。
自分がここで下す一つ一つの判断が、何百、何千という家庭の「一銭」に直結しているのだ。その責任の重さが、外套よりも重く肩にのしかかる。
仕事を終え、銀行を出る頃には、夜の帳は完全に下りていた。
空からは、粉雪が舞い始めている。昼間の神経を削るような仕事のせいで、賢治の身体は芯から冷え切っていた。
凍てついた街路を、一歩、また一歩と踏みしめながら、賢治は深く息を吐いた。白い息が、街灯の光に照らされて揺らめく。夜空は月が満月の近づこうとしている。薄い雲と粉雪が月を隠し空一面をほの白く映し出していた。
(ようやく、帰れるな)
角を曲がった先、いつもの場所に我が家の灯りが見えた。
玄関を開けると、三和土に広がる暖かな光。
奥からは、賢治の帰宅を察した志津が火鉢の炭を整える、微かな音が聞こえてくる。
「お帰りなさいませ、賢治さん。お疲れ様でございました」
志津が差し出した温かい手ぬぐいを受け取った瞬間、賢治の顔からようやく「銀行員」の仮面が剥がれ落ちた。
「ああ。……今夜の寒さは、格別だったよ」
火鉢の熾火が、冷え切った指先をじんわりと解かしていく。
厳しい日常という戦場から戻り、この灯りに守られて、また明日への活力を蓄える。
賢治は、志津が淹れてくれた香ばしい番茶を啜りながら、自分が守るべき「日常」の輪郭を、改めて深く胸に刻むのであった。
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