七草の客
主人公 牧野 賢治
妻 牧野 志津
娼館の女 お蘭
一月七日。朝のうちに賢治を送り出し、志津は手際よく玄関の松飾りを下ろした。
これでようやく、家の中から「正月」という特別な空気の澱みが消え、真っ新な日常が戻ってくる。志津は清々しい心持ちで、昨夜叩いておいた七草をまな板の上で整え始めた。
「ごめんくださいな、志津さん!」
不意に、静かな家の中に弾んだ声が響いた。
志津が顔を上げるより早く、格子戸が開く。そこに立っていたのは、冬の寒さを撥ね退けるような明るい羽織を纏ったお蘭であった。
「お蘭さん。まあ、こんなに早くに」
「七草の匂いに誘われてきちゃった。志津さんの作るお粥は、この街で一番美味しいんですもの」
お蘭は遠慮なく台所まで上がってくると、志津の手からしゃもじを奪い取るようにして鍋を覗き込んだ。志津は困ったように微笑みながらも、もう一枚、お蘭のための取り皿を棚から下ろした。
「いい? 志津さん。男の人なんて、外で美味しいものを食べているんだから、家ではこれくらい賑やかにしなくっちゃ」
お蘭はそう言って、街の噂話や新しい洋装の流行、そして少しばかりの毒気を含んだ世間話を次々と放り込んでくる。
志津は火鉢の炭を整えながら、お蘭の話に相槌を打った。普段、賢治と向き合っている時には決して見せない、女友達だけに見せる緩んだ表情。お蘭の屈託のない笑い声に誘われ、志津の胸の奥に溜まっていた「家を守る者」としての緊張が、少しずつ解けていくのがわかった。
「さあ、出来たわ。食べましょう」
二人は、湯気を立てる七草粥を囲んだ。
志津が丁寧にこしらえた粥は、春の若菜の香りが鼻を抜け、疲れた体に染み渡るような優しい味がした。
「美味しい! 志津さん、お代わりいいかしら」
「ええ、どうぞ。私も少し頂こうかしら」
お喋りと匙が止まらない。お蘭のペースに乗せられるまま、志津もまた、自身の食欲が存分に開いていくのを感じていた。
「あら、もうこんなに」「本当ね、もう一杯くらいいけるわよ」
気がつけば、あれほどたっぷりと炊き上げたはずの鍋の底が見えていた。二人は顔を見合わせ、子供のように声を上げて笑った。
お蘭が「ああ、満腹! ごちそうさま」と嵐のように去っていった後、家の中には再びしんとした静寂が戻ってきた。
志津は、空になった鍋と、並んだ二つの茶碗を見つめて、ふと我に返った。
(……大変。賢治さんの分まで、綺麗に食べてしまいましたわ)
家計を司り、規律を重んじる「守り人」としての自分が、今の今までお蘭との楽しさに負けて姿を消していた。志津は頬が少し上気しているのを自覚し、苦笑いしながら立ち上がった。
「仕方がありませんね」
志津は再び袖をまくり、竈の火を熾し直した。
今度は一人の静けさの中で、米を研ぎ、再び七草を刻む。
一度目とは違い、どこか満足感に満ちた、ゆったりとしたリズム。
お蘭という風が運んできた賑やかさが、志津の心に新しい活力を与えていた。
夕刻、仕事から戻る賢治は、今朝よりもさらに丁寧に炊き上げられた七草粥を口にすることになるだろう。
それが、志津の密かな「共犯」の証であることを、彼は知る由もない。
志津は、二度目の鍋から立ち上る白い白煙を見つめながら、正月の最後の一日を、心底愛おしく感じていた。
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