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月待ちの灯(あかり)  作者: しゅう


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出初式

主人公 牧野 賢治

妻 牧野 志津

賢治を揺り起こしたのは、昨日までの華やかな祝杯の記憶ではなく、後悔という名の重い頭痛であった。


「……ううむ」

寝返りを打つと、昨夜志津に押し当てられた手ぬぐいの冷たさが、今も額に残っているような錯覚に陥る。

(市では一銭を惜しんで……か。全く、面目ない)

隣の寝床は既に空で、階下からは規則正しい包丁の音が響いてくる。賢治は這い出すようにして布団を畳むと、冷え切った洗面所で顔を洗った。氷のような水が肌を刺し、ようやく「銀行員・牧野賢治」の輪郭が戻ってくる。

食卓に座ると、そこには約束通り、湯気を立てる白いお粥と、梅干し、そして志津の静かな視線があった。

「……おはよう。昨夜は、その、すまなかった」

「お目覚めですか。お身体に障らぬよう、今日はこれだけに」

志津の声にとげはないが、余計な甘やかしもない。賢治はお粥を一口啜すすり、熱い粥が胃に染み渡るのを感じながら、己の浅ましさを腹の底で反省した。

一銭、二銭を積み上げて家を守る志津と、万の金を動かしながら酒に呑まれる自分。

その対比を突きつけられた以上、今日は昨日以上に働かねばならない。賢治は糊のきいたシャツに袖を通し、鏡の前で表情を引き締めると、鉄の仮面を被るようにして家を出た。


街に出ると、空は抜けるように青く、どこかから勇壮な掛け声が聞こえてきた。

今日は一月六日、出初式である。

通りでは、まといを掲げた消防組の男たちが、凛々しい姿で練り歩いている。

「火の用心! 抜かりなく!」

その威勢の良い声を聞きながら、賢治はふと足を止めた。

消防の男たちが街を火から守るように、自分は預金という人々の血汗けっかんを、時代の荒波から守らねばならない。

銀行に入れば、そこはもう数字だけが支配する戦場だった。

正月明けの融資の相談、引き出し、そして昨年末からの不穏な景気動向の精査。

賢治は二日酔いの余韻を完全に押し殺し、算盤そろばんの玉を弾いた。

「……ここの金利は、もう少し慎重に見るべきだな」

同僚たちの間を抜け、支店長への報告書をまとめる。

昨夜、料亭で聞いた名士たちの景気の良い話は、そのまま鵜呑みにはできない。

志津が市で見極めた「凍み豆腐」や「牛蒡」の確かな手応えのように、自分もまた、数字の裏にある「確実な実態」だけを信じるべきだと、今の賢治は強く思っていた。


夕刻、予定よりも一時間早く仕事を切り上げ、賢治は足早に帰路についた。

昨夜のような寄り道は、毛頭するつもりはない。

家を囲む板塀の陰に入ると、どこからか「トントン、トントン」と、軽やかでいて力強い、不思議なリズムが聞こえてきた。

(ああ……そうだ。今夜は宵七草だったな)

玄関を開けると、その音はさらに鮮明に響いた。

志津が台所の板間に座り、明日朝の七草粥に備え、まな板の上で青菜を叩いているのだ。

「七草なずな、唐土とうどの鳥が、日本の土地に、渡らぬ先に、ストトントン」

微かに聞こえてくる志津の唱え言葉。

邪気を払い、無病息災を願うその歌声と包丁の音は、賢治の荒んだ神経を、不思議なほど優しく解きほぐしていった。

「ただいま、志津」

「お帰りなさいませ、賢治さん。……今日は早かったのですね」

顔を出した志津は、少し驚いたように、けれどどこか嬉しそうに目を細めた。

「ああ。……その音を聴いたら、急に家が恋しくなってな」

長火鉢には、既に鉄瓶がシュンシュンと鳴り、穏やかな熾火が赤く光っている。

賢治は羽織に着替え、火鉢の傍らに腰を下ろした。

昨夜の冷たい手ぬぐいではなく、今夜は志津が淹れてくれた熱い番茶がある。

明日の朝、あの七草粥を啜れば、正月という名の幕は完全に下りる。

賢治は、志津の叩く包丁のリズムを背中で聞きながら、ようやく自分自身の平穏な日常に、正しく着地できたことを実感するのであった。

読んでいただきありがとうございます。

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