五日市
主人公 牧野 賢治
妻 牧野 志津
朝の冷気は相変わらず鋭いが、街の空気は昨日までとは明らかに異なっていた。
門松やしめ飾りが外された八戸の街並みは、華やかさを脱ぎ捨て、剥き出しの冬の厳しさと、それに応戦する人々の活気に満ちている。志津は腕に買い物籠を提げ、正月明け最初の「五日市」へと足を向けた。
市が立つ路地に入ると、南部弁の威勢のいい掛け声が、白く凍った空気を震わせていた。
並んでいるのは、もはや祝儀用の鯛や伊勢海老ではない。
縄で括られた身欠きニシン、飴色に透き通った凍み豆腐、泥のついた太い牛蒡。どれもが、これからの厳しい冬を家族が生き抜くための、地味だが力強い「命の糧」であった。
志津は、馴染みの乾物屋の前で足を止めた。
「おばちゃん、この凍み豆腐、三つ頂戴」
「はいよ、志津さん。良いところを選んでおくからね」
志津は、差し出された品を厳しく、だが慈しむように見定めた。
銀行員の妻として、世間の目を意識した身なりは整えているが、その財布の紐は、凍てついた路面よりも固い。正月三が日で緩んだ家計の綱を、今日この日から、再びきつく締め直すのが彼女の流儀であった。
一銭、二銭の端数にまで気を配り、籠の中を食材で満たしていく。
その一歩一歩に、浮ついた正月気分を日常の地面へと引きずり戻すような、静かな執念が宿っていた。
(……これで、今月も無事にやり繰りできますね)
重くなった籠の重みは、志津にとって、家を守る者としての誇りそのものであった。
一方、その日の夕刻。賢治は、市内の格式高い料亭の広間にいた。
官公庁や地元の名士たちが一堂に会する「新年宴会」。
三が日の親戚回りとは、酒の重みが違う。一言の失言が銀行の信用を揺るがし、一杯の返杯を拒むことが商機を逸することに繋がりかねない。
賢治は、張り詰めた緊張感の中で、注がれる盃を次々と干していった。
「さあ、賢治さん。本年も八戸の経済を頼みますよ」
「ははっ、恐縮です。……では、もう一杯」
相手の顔を立て、言葉を選び、数字を頭の隅で転がしながらの社交。
だが、御用始めからの連日の疲労が、じわじわと酒の回りを早めていた。
宴が終わりに近づく頃、賢治の意識は、暖房で火照った部屋の熱気と日本酒の芳醇な香りに、ぐにゃりと歪み始めていた。
深夜、賢治は千鳥足で自宅の玄関に辿り着いた。
「ただいま……戻り、ました……」
呂律の回らぬ声と共に引き戸を開けると、三和土には既に、いつものように三つ指を突いて待つ志津の姿があった。
「お帰りなさいませ。……随分と、景気がよろしいようで」
志津の声は、冷ややかな冬の月光のように透き通っていた。
賢治は、志津の肩を借りてどうにか居間へ上がり込む。長火鉢の、熾火のじんわりとした温もりに触れた瞬間、緊張の糸が完全に切れ、彼は畳の上に崩れ落ちた。
「いやぁ……今日は、署長が……どうしても、と……」
「左様でございますか」
志津は、手際よく賢治の外套を脱がせ、手ぬぐいを水で濡らしてきた。
その動作は極めて丁寧だが、その眼差しは笑っていない。
賢治の火照った額に、冷たい手ぬぐいが容赦なく押し当てられた。
「うっ……冷たいな、志津」
「少しは頭を冷やしていただかないと。……今日、私は五日市へ参りましたのよ」
志津は、脱ぎ散らかされた賢治の靴下を拾い上げながら、淡々と言い放った。
「市では、おばちゃんたちが一銭、二銭を惜しんで立ち働いておりました。……賢治さんが今夜、景気よく干されたそのお酒一杯で、凍み豆腐が一体何個買えたことか、計算なさってみてくださいませ」
「……うぐっ」
賢治は、突き刺さるような正論に、言葉を詰まらせた。
銀行で扱う「万」の単位の数字よりも、志津が今口にした「一銭」の重みの方が、酔った頭には遥かに重く、鋭く響いた。
「明日の朝は、またお粥に戻しましょうか。……それとも、もっとお腹に障る『お小言』の方が、お肴にふさわしいでしょうか?」
志津は、最後に少しだけ口角を上げて微笑んだが、その瞳の奥には、家計と日常を司る「守り人」としての絶対的な威厳が宿っていた。
「……お粥で、お願いします」
賢治は蚊の鳴くような声で答え、志津に背を向けて丸くなった。
一月五日の夜。
八戸の冬の夜は更けていくが、この家において、正月という名の特赦は、今この瞬間、完全に終わりを告げたのである。
読んでいただきありがとうございます。
下の★~★★★★★で評価してもらえると勉強になります。
感想などいただけると嬉しいです。




