守り人
主人公 牧野 賢治
妻 牧野 志津
一月四日、午前五時。
まだ夜の帳は分厚く、隣で眠る賢治の規則正しい呼吸音だけが、凍てついた寝室に僅かな生の温もりを添えている。志津は、階下から微かに響いてくる柱時計の規則正しい刻みに誘われるように、意識を浮上させた。
(……さあ、今日からですね)
冷えた空気の中に腕を出し、手早く夜具を整えると、自身の「御用始め」を告げるように、きつく帯を締め直した。
階下へ下り、真っ先に台所の勝手口を開ける。
「……冷えますね」
独り言のように呟いた吐息が、瞬時に白く凍り、闇に溶けた。
氷点下の冷気が家の中に流れ込む。だが、志津はこの刺すような寒さを嫌いではなかった。これが、北国八戸の冬の本来の姿であり、今日からまた始まる日常の厳しさを教えてくれる儀式のようなものだったからだ。
まずは竈に火を熾す。
昨夜のうちに用意しておいた薪が火を捉え、赤い爆ぜの音が静寂を破る。その熱が次第に冷え切った台所を溶かしていくのを背中で感じながら、志津は賢治の背広を水屋から取り出した。
昨夜、丹念に火熨斗を当てた背広。その漆黒の布地を、志津は明るくなり始めた光の下で、もう一度執拗なまでに点検する。襟元の汚れはないか、釦の緩みはないか。
志津にとって、夫の身なりを整えることは、単なる家事ではなかった。それは、外で戦う賢治が誰からも侮られぬよう、無言で施す「甲冑」の点検であった。
台所から香ばしい出汁の香りが漂い始める頃、二階で賢治が目覚める気配がした。
三日まではお粥で胃を休めたが、今日からは違う。志津は、ふっくらと炊き上げた白米と、八戸の冬には欠かせない熱い味噌汁、そして香の物を手際よく並べていく。
賢治の前に差し出す番茶の温度、茶碗を置く位置。そのすべてに志津は細心の注意を払った。
今日、銀行へと戻る夫が、一瞬の澱みもなく日常のリズムを掴めるように。
食卓を囲む間、交わされる言葉は少ない。
「お代わりはいかがですか」
「ああ、頂こうか」
その淡々としたやり取りの中に、志津は賢治の心身の調子を読み取る。箸の進み具合、茶を啜る音、視線の鋭さ。
(……大丈夫。今朝の賢治さんは、もう銀行員の顔をなさっている)
志津は密かに安堵し、彼が席を立つと同時に、玄関へ先回りして新しい足袋を広げた。
「行って参ります」
「……行ってらっしゃいませ。お気をつけて」
玄関の引き戸が開き、賢治の背中が外の冷気へと吸い込まれていく。
志津は敷居を越えぬよう一歩引き、夫の背中が路地の角に消えるまで、その場に立ち尽くした。
「バリ、バリ」という、凍りついた雪を砕く硬い足音。その音が完全に聞こえなくなるまで、彼女は深い呼吸を止めていた。
やがて、完全な静寂が家の中に帰ってきた。
「……ふう」
志津は小さく吐息を漏らし、ゆっくりと引き戸を閉めた。
錠を下ろす「カチャン」という音が、先ほどまでの張り詰めた緊張を断ち切るように響く。
数時間前まで自分を包んでいた、あの優しい正月休みは、もうどこにもない。
主のいなくなった居間には、まだ僅かに賢治の吸っていた煙草の残り香と、石炭ストーブの温もりが漂っている。
志津は、賢治が使った茶碗を台所へ運び、冷たい水で洗い流した。
カチリ、カチリと食器が触れ合う音だけが、静まり返った家の中に虚しく反響する。
この瞬間の、言いようのない空虚さと、それ以上の深い安堵。
夫を無事に送り出したという達成感と、一人の女に戻った瞬間の、冬の陽だまりのような静けさ。
志津は濡れた手を拭き、誰もいない食卓を見つめた。
(さて……私も、動かねばなりませんね)
賢治を見送ってから、志津は憑かれたように家の中を動き回った。
座敷の床の間に飾られた「鏡餅」を下ろし、玄関のしめ飾りを丁寧に包む。正月の名残を一つずつ片付けていくたびに、家の中に溜まっていた「晴」の空気が抜け、清潔で厳しい「褻」の日常が戻ってくるのがわかった。
昼が近づく頃、空には冷え冷えとした陽光が差し始めていた。
志津は、朝の残りのご飯に、少しの漬物と熱いほうじ茶を用意し、居間の縁側に腰を下ろした。
一人で摂る昼食。
賢治と向かい合っている時のような緊張感はないが、その分、食べ物の味が妙に鮮明に感じられた。
庭の隅には、まだ厚い雪が積み重なっている。
志津は、茶碗から立ち上る湯気の向こう側に、今頃銀行で算盤を弾いているであろう賢治の姿を思い描いた。
「お疲れ様です、賢治さん」
口に出さず、ただ心の中で呟く。
彼女にとっての御用始めは、こうして静かに、そして誰にも知られることなく、確かな手応えと共に過ぎていくのであった。
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