御用始め
主人公 牧野 賢治
妻 牧野 志津
一月四日の朝、八戸の空は底冷えのする薄灰色に塗り潰されていた。
三が日の間、人々の浮き足立った祝祭を包み込んでいた雪は、昨夜からの冷え込みによってカチカチに凍てつき、路面は鈍い光を放つ氷の板へと姿を変えている。
賢治は二階の寝室で、志津が用意してくれた肌着に袖を通した。
三日のお粥ですっかり軽くなった胃の腑が、心地よい空腹感を伝えてくる。鏡の前に立ち、糊のきいた真っ白なシャツのボタンを一つずつ留めていくと、指先から伝わる生地の硬さが、銀行員としての「武装」を完成させていくようだった。
「賢治さん、お召し物が整いました」
階下から届く志津の声。居間へ下りると、そこには昨夜のうちに煤一つなく磨き上げられた背広と、皺ひとつない外套が控えていた。
志津は、賢治が席に着くのと同時に、熱い番茶を差し出す。湯気の向こう側で、彼女は一言も発さず、だが細やかな手つきで夫の持ち物を確認していた。
帳面、万年筆、そして数日前に彼女自身が切り揃えた、あの和紙の名刺。
「……よし。行こうか」
朝食を終え賢治が立ち上がると、志津は無言で膝をつき、彼の足元に新しい足袋を差し出した。
玄関先で磨き抜かれた黒革の靴を履く。昨日までの泥濘を歩いた疲れなど微塵も感じさせない、鏡のような輝き。それが志津の、言葉にせぬ送り出しの流儀であった。
ガラリ、と引き戸を開けると、剃刀のような鋭い冷気が賢治の頬を撫でた。
街の景色は、まだ半分眠りの中にあった。
近所の家の軒先には、少し煤けた門松やしめ飾りがまだ残っているが、それらは既に「役目を終えた」という寂寥感を漂わせている。路地を抜ければ、遠くで始動し始めた工場の煙突から、細い煙が真っ直ぐに冬の空へと吸い込まれていた。
賢治の足元で、凍りついた雪が「バリ、バリ」と硬い音を立てて砕ける。
その音は、昨日までの「キュッ」という柔らかな雪の音とは明らかに違っていた。
それは、非日常の安らぎが終わり、再び冷徹な現実――数字と信用が支配する世界へと戻るための合図のようでもあった。
道ゆく人々も、どこか足早だ。首をすくめ、吐息を白く散らしながら、それぞれの「戦場」へと向かっていく。三日までの、あのゆったりとした挨拶を交わす余裕はない。
賢治は、大きく一つ呼吸をした。
冷気が肺の奥まで突き刺さり、意識を極限まで研ぎ澄ませる。
(今日から、また一年が始まる)
懐に手を入れ、志津の名刺の束に触れる。
指先に伝わる和紙の温かみだけが、氷の街を歩く彼にとって唯一の、そして最強の守り刀であった。
前方には、重厚な石造りの銀行の建物が見えてきた。
まだ開門前だというのに、その佇まいは街の誰よりも早く覚醒し、これから訪れる激動の経済を待ち構えているようだった。
賢治は一度だけ、自分の吐息が空に溶けるのを見届けると、迷いのない足取りで、鋼のような意志を秘めて門へと進んだ。
銀行の重い鉄の扉を押し開けると、外の刺すような寒さとは対照的な、むっとするほどの独特な「熱」が賢治を包み込んだ。
それは石炭ストーブが放つ乾いた熱気と、大量の紙が吸い込んだ煤の匂い、そして万年筆のインクが揮発する際に放つ、仄かに青酸じみた鋭い香りが混ざり合った、銀行という空間特有の「息遣い」であった。
「おはようございます!」
「おめでとうございます、本年もよろしくお願いいたします」
行き交う行員たちの挨拶は、昨日までの社交的な柔らかさを削ぎ落とし、既に実務の刃のように鋭く、簡潔なものへと変わっていた。
賢治は自分の机に辿り着くと、椅子を引く前に一度、外套を丁寧にハンガーへ掛け、背広の皺を払った。志津が昨夜、丁寧に火熨斗を当ててくれたその布地は、彼の背筋を無理なく、だが峻厳に正してくれる。
机の上は、これから分厚い帳面と、山のような伝票が鎮座する。
賢治は腰を下ろし、右手に馴染んだ算盤を一度、カチンと鳴らして全ての珠を下に落とした。その「零」に戻す音こそが、彼にとっての本当の仕事始めの合図だった。
「……始めるとするか」
周囲からは、早くも算盤を弾く「パチパチ」という乾いた音が、さざなみのように広がり始めている。
それは、この街の金流が再び脈動を始めた証でもあった。
賢治は万年筆を取り出し、最初の一ページ目を開く。
真っ白な紙の上に、漆黒のインクで数字を刻んでいく。
一円の狂いも許されぬ世界。
外回りの時に見せていた、あの物腰柔らかな笑顔は、今の彼のどこにもない。
眉間に深く刻まれた皺と、紙面を射抜くような鋭い眼差し。
それはまさに、盤上で戦う棋士のような、あるいは研ぎ澄まされた刃を振るう剣客のような静かな気迫に満ちていた。
ふと、書類を整理しようとした指先が、懐に忍ばせていた志津の名刺の予備に触れた。
その名刺の端の、僅かな和紙の毛羽立ち。
彼女が夜な夜な、愛おしむように切り揃えてくれたその「余白」は、数字と記号だけで埋め尽くされた殺伐とした帳面の中で、唯一の、血の通った「温度」を宿しているように感じられた。
午前が過ぎる頃、石炭ストーブの上で沸かされた薬罐が、シュンシュンと景気の良い音を立てていた。
窓の外を見れば、雪に反射した陽光が眩しく室内に差し込んでいる。
賢治は一瞬だけ筆を止め、指先を休めた。
自分がここで積み上げる正確な数字が、八戸の商店の暖簾を守り、人々の生活の礎となる。
その重圧は、心地よいほどの重みとなって、彼の肩に再び力を与えていった。
「賢治さん、決算報告ですが――」
部下からの声に、賢治は淀みない動作で顔を上げた。
「ああ、今見よう。……昨日の数字との乖離を、重点的に精査しろ」
その声には、一切の迷いがなかった。
御用始め。
八戸銀行の日常は、こうして鋼のような意志と共に、再びその大きな歯車を回し始めたのである。
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