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月待ちの灯(あかり)  作者: しゅう


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主人公 牧野 賢治

妻 牧野 志津

一月三日の朝。まだ夜のとばりが完全には上がりきらぬ薄闇の中、志津は一人、音を立てぬよう台所に立っていた。

連日の年始回りは、賢治にとって銀行員としての矜持を保つための戦場であった。昨夜、深夜に帰宅した彼の外套からは、雪の冷気と共に、濃厚な酒の香りと煙草の匂いが染み付いていた。

(……随分と、無理をなさいましたね)


志津は、水屋から小ぶりの土鍋を取り出した。

今朝の献立は、贅を尽くした正月料理ではない。三日間、外での社交という名の荒波に揉まれ、疲弊しきった賢治の胃のを優しく宥めるための「粥」である。

米を研ぎ、たっぷりの水と共に火にかける。

薪がパチリと爆ぜ、次第に土鍋の中から「コトコト」という、囁くような音が響き始めた。米粒が熱を帯び、水のなかでゆっくりと踊りながら、その身を解いていく。

志津はその傍らに立ち、木杓きじゃくで時折、鍋の底を撫でるように回した。焦げ付かぬよう、そして米が最も美しい乳白色の輝きを放つ瞬間を逃さぬよう、その手つきは祈りにも似て丁寧であった。

次第に、台所には米特有の、仄甘ほのあまくどこか懐かしい香りが立ち上り始める。

志津は、その香りに包まれながら、自家製の梅干しを一つ、小皿に用意した。

去年の夏、強い陽射しの中で自身が干し上げた、真っ赤な梅。その酸味が、賢治の濁った頭を清々しく突き抜けてくれることを願って。


二階の寝室で、賢治は重い瞼を持ち上げた。

頭の芯には、昨夜の料亭で交わされた喧騒の名残が、鈍い痛みとなって居座っている。

三日間にわたる年始回り。頭を下げ、酒を酌み交わし、笑顔の裏側で数字の駆け引きを繰り返す。それは銀行員として避けては通れぬ道だが、一人の人間としては、心身ともに削り取られるような数日間であった。


(……動きたくないな)

一瞬、そんな弱音が頭をよぎる。だがその時、階下から漂ってくる香りが、賢治の嗅覚を優しく、それでいて確かに刺激した。

それは酒の毒気を洗い流してくれるような、清らかな米の香りだった。

賢治はゆっくりと身を起こし、皺の寄った顔を両手で拭った。

あの香りの主が、既に一日の準備を整え、自分を待っている。

その事実が、凍てついた賢治の心に、小さな、だが消えない灯をともした。


居間へ下りると、そこには湯気を立てる土鍋が置かれていた。

「お早うございます。……少し、お顔色が優れませんね」

志津が、案じるような、それでいて全てを包み込むような眼差しを向ける。

「ああ。……少し、飲みすぎたようだ」

苦笑いしながら席に着く賢治の前に、志津が丁寧に粥をよそった。

茶碗の中の粥は、驚くほど透き通っていた。

米の一粒一粒が形を保ちながらも、その縁はとろりと溶け合い、朝の柔らかな光を受けて真珠のように輝いている。

賢治は木匙きさじで一口、その熱い雫を口に運んだ。

「……ああ」

思わず、深いため息が漏れた。

熱が喉を通り、胃に到達した瞬間、緊張で凝り固まっていた内臓がじわりと解けていくのがわかった。

余計な味付けは何一つない。ただ、米の滋味と水の清らかさだけが、三日間のおりを流し去っていく。

添えられた梅干しを一口齧れば、その鮮烈な酸味が眠っていた五覚を呼び覚ました。

「美味しい。……生き返るようだ」

「よろしゅうございました。今日一日は、少しゆっくりとなさってくださいね」

志津は、自分の分のお粥を少しずつ口に運びながら、静かに微笑んだ。


窓の外には、まだ雪が残っている。だが、その白さはもはや荒々しい吹雪の予感ではなく、明日からの四日――仕事始めに向けた、静かな準備の色をしていた。

「志津。……明日は四日だ。いよいよ、実務が始まる」

「はい。準備は整えておきますわ。新しい名刺も、まだ十分にございますし」

賢治は、最後の一口まで粥を楽しみ、茶碗を置いた。

泥濘ぬかるみの中を歩き、社交の渦に巻かれた三日間が、今ようやくこの温かなお粥によって締めくくられた。

二人の間には、穏やかな湯気がゆらゆらと立ち上り、八戸の厳しい冬の中に、ひとときの、しかし確固たる平穏が満ちていた。

読んでいただきありがとうございます。

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