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月待ちの灯(あかり)  作者: しゅう


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事始め

主人公 牧野 賢治

妻 牧野 志津

一月二日の朝、八戸の街は、昨日までの静寂が嘘のような喧騒に包まれていた。

元旦の朝に世界を真っ白に覆い尽くした雪は、一夜明けて、人々の足跡と馬車のわだちによって無残に踏み荒らされている。気温が僅かに上がったせいか、雪は水分を含んで重くなり、通りは黒ずんだ泥混じりの泥濘ぬかるみへと姿を変えていた。


賢治は、志津が磨き上げてくれた黒革の靴を泥に汚さぬよう、慎重に足を選んで歩いていた。だが、どれほど気を付けていても、跳ね返る泥水が裾を汚していく。

「……やれやれ、これも『事始め』か」

独り言が白く濁り、冬の湿った風に流された。

銀行員にとっての二日は、挨拶回りという名の真剣勝負の場である。

向かう先は、地元の地主や商店の主たち。新しい一年の融資や預金の約束を取り付けるためには、正月の祝儀気分に浸っている暇などない。賢治は、外套の襟を立て、冷たい風を遮るように顎を引いた。


最初に向かったのは、街でも指折りの大棚おおだなである。

玄関先には立派な門松が設えられ、中からは賑やかな笑い声と、三味線の音が漏れ聞こえていた。賢治は深く息を吸い込み、泥濘に晒されていた「一人の男」から、「銀行員・賢治」へと表情を切り替える。


「明けましておめでとうございます。八戸銀行の賢治でございます」

座敷に通されれば、そこには既に幾人かの先客がおり、膳の上には豪華な料理と徳利が並んでいた。

「おお、賢治さん。まあ、座って一杯やりなさい」

主人の威勢の良い声に、賢治は愛想良く応じながらも、鋭い視線は座の空気を読み取っていた。勧められるままに盃を干し、世間話を交わしながら、主人の表情の微かな変化、あるいは同席している他行の行員の動きに神経を尖らせる。


酒は回る。だが、頭の芯は氷を当てたように冷徹なままだ。

懐に忍ばせた、志津が切り揃えてくれた名刺の束に指先が触れる。

その一枚を主人の前に差し出す際、和紙の柔らかな質感が、指先を通じて賢治に「家の静寂」を思い出させた。

(志津は今頃、この泥濘とは無縁なのだな)

その確信が、社交という名の泥沼に足を取られそうな賢治を、不思議と強く繋ぎ止めていた。


次から次へと家を回り、同じような挨拶を繰り返し、同じような酒を胃に流し込む。

昼を過ぎる頃には、外套は重く、足取りにも疲れが滲み始めていた。

雪解けの泥水は、いつの間にか靴の中まで染み込み、足先を凍えるほどに冷やしている。

だが、賢治の背筋は伸びたままだった。

自分がここで泥に塗れ、数字と信頼を勝ち取ることが、あの家を守ること。

その矜持が、彼を突き動かしていた。



夫を送り出した後の家の中は、耳が痛くなるほどの静寂に包まれていた。

かまどの火を落とし、洗い物を片付け終えた志津は、居間の机の前に正座した。今日は一月二日、「書き初め」の日である。

志津は丁寧にすずりに向き合い、墨を磨り始めた。

「……スッ、スッ……」

微かな摩擦音が、静まり返った部屋に規則正しく響く。重厚な墨の色が少しずつ水に溶け出し、やがて部屋全体を、研ぎ澄まされた墨の香りが支配していった。

志津にとって、墨を磨るこの時間は、自身の心を真っさらに洗い流すための儀式でもあった。

(賢治さんは今頃、冷たい風の中を歩いていらっしゃることでしょう)

泥濘ぬかるみに足を取られながらも、銀行員としての矜持を胸に戦っている夫。その苦労を思えば、自分の手元の寒さなど何ほどでもない。志津は筆を手に取り、十分に墨を含ませた。

真っ白な半紙に向き合うと、志津の背筋が自然と伸びる。

彼女がしたためめたのは、華やかな新年の言葉ではなく、質実剛健な一文字であった。

「和」

人と人との繋がりを重んじる銀行員の妻として。そして、あの荒々しい外の世界から帰ってきた夫を、常に穏やかに迎え入れられる場所でありたいという、志津なりの決意がその一筆に込められていた。




日が傾き、八戸の街が夕闇に沈む頃。

玄関の戸が開き、冷気と共に重い足音が響いた。

「ただいま、戻った」

志津はすぐさま玄関へ駆け寄り、三つ指をついて出迎える。

「お帰りなさいませ。お疲れ様でございました」

見上げれば、賢治の外套は湿り気を帯び、表情には隠しきれない疲労の色が浮かんでいた。靴は泥にまみれ、見るも無惨な状態だ。

志津は手際よく外套を受け取り、温かな白湯を用意した。

「靴は、明日までにまた綺麗に磨いておきますから。まずは、お身体を温めてください」

「ああ……。すまんな、志津」

賢治は、志津が淹れた茶を一口飲み、ようやく深い溜息を吐き出した。

外での戦いの顔が少しずつ解け、一人の夫の顔に戻っていく。

賢治の鼻を、ふと墨の香りがくすぐった。

「書き初めか?」

「はい。不束ふつつかながら、一筆書かせていただきました」

居間に置かれた「和」の文字を眺め、賢治の口元に微かな笑みが浮かぶ。

泥濘の中を歩き回り、冷え切った身体に、その墨の香りと志津の穏やかな佇まいが、何よりの薬となって染み渡っていく。


外は再び冷え込み始め、溶けた泥を凍らせようとしていたが、家の中には、磨き抜かれた墨の香りと共に、確かな安らぎが満ちていた。

読んでいただきありがとうございます。

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