元旦
主人公 牧野 賢治
妻 牧野 志津
枕元の障子が、いつもより白く、そして鋭い光を帯びていることに、賢治は微睡の中で気づいた。
まだ意識が覚醒しきらぬ頭の隅で、昨夜の志津との会話を思い出す。
「明日の朝は、銀世界かもしれませんね」
その言葉は予言となって、この家の周囲を音もなく包み込んでいた。
賢治は布団の中で小さく息を吐き出す。吐息がうっすらと白く濁るのを見て、今朝の冷え込みが格別であることを知った。寝室の空気は、まるで薄氷を一枚隔てたかのように張り詰め、静寂が耳に痛いほどだ。雪は音を吸う。降り積もった雪が街の喧騒を、風の音を、そして人々の生活の気配すらも真綿で包むように消し去ってしまった。
のっそりと身を起こし、賢治は寝間着の上に羽織を重ねた。冷え切った畳の感触が足の裏から心臓を突き刺す。廊下へ出ると、志津はすでに起きて階下にいるのだろう、微かに薪が爆ぜる音が、遠くから弾むように聞こえてきた。
賢治は縁側の障子に手をかけた。指先から伝わる木枠の冷たさに一瞬身を縮め、それから一気に引き開ける。
「……おお」
思わず感嘆の声が漏れた。
そこには、昨日までの見慣れた庭はどこにもなかった。
全てが白く、そしてどこまでも平坦な「沈黙」の世界。庭石は丸みを帯びた綿帽子を被り、松の枝は重たげな雪の衣を纏って、今にも折れそうに頭を垂れている。空は、まだ夜の名残を留めた深い群青と、明け方の白磁が混ざり合う不思議な色をしていた。
雪明かり、とはよく言ったものだ。太陽が顔を出す前だというのに、地上に降り積もった雪が、天空の僅かな光を反射し、世界を内側から発光させている。その光はあまりに純粋で、見る者の心の汚れまで見透かしてしまうような、峻厳なまでの輝きだった。
賢治は縁側の端に腰掛け、しばらくその景色に見入った。
肺の奥まで吸い込んだ空気は、凍りつくように冷たい。だが、その冷気が数日間の酒の残滓と、一年の澱を綺麗に洗い流してくれるような気がした。
「賢治さん、起きていらしたのですか。そんなところで、お体が冷えてしまいますよ」
背後から、衣擦れの音と共に温かな声がした。
振り返ると、そこにはいつもの割烹着姿ではなく、落ち着いた紺青の着物に身を包んだ志津が立っていた。彼女の髪は一糸乱れず結い上げられ、新年の朝を寿ぐに相応しい、凛とした美しさを湛えている。
「志津。……本当に、銀世界になったな」
「はい。昨夜、雪の精が降りてきたようでございます。……おめでとうございます、賢治さん。新しい年が参りました」
志津が静かに手をつき、畳に額を寄せる。その所作の一つひとつが、雪景色の一部であるかのように見える。
居間へ移動すると、そこにはすでに新年の設えが整えられていた。
火鉢の中で炭がシュンシュンと音を立て、鉄瓶から細い湯気がゆらゆらと立ち上っている。志津が用意したのは、塗りも鮮やかな朱の屠蘇器であった。
賢治は、志津の促すままに上座へと腰を下ろす。志津が膝をつき、恭しく一太刀の盃を差し出した。
「どうぞ、一年の邪気を払い、長寿を願って……」
盃に注がれた屠蘇が、朝の光を反射して揺れる。薬草の独特な香りが鼻腔をくすぐり、それを一口含めば、喉の奥から腹の底へと熱い筋が通り、ようやく新しい年が始まったのだという実感が身体の芯から湧き上がってきた。
「さあ、お食事にいたしましょう」
志津が台所から運んできたのは、重箱と、そして湯気がもうもうと立ち上る炊きたての飯であった。
そして、その傍らに、昨夜から寒冷な台所で寝かされていた「ナメタカレイ」が鎮座している。
賢治は思わず喉を鳴らした。
煮汁は、見事なまでにぷるぷるとした琥珀色の煮こごりに姿を変え、カレイの厚い身を優しく包み込んでいる。
賢治は箸を伸ばし、煮こごりを纏った身をひとかたまり、熱い飯の上に乗せた。
その瞬間である。
真っ白な米の熱に触れた煮こごりが、縁からじわりと溶け始めた。
凍てついていた琥珀の雫が、熱を受けて透明な蜜へと戻り、米粒の隙間へと滑り落ちていく。
醤油と砂糖の甘辛い香りが、湯気に乗って一気に膨らみ、賢治の嗅覚を占拠した。
たまらず一口、口へと運ぶ。
舌の上で、まだ冷たさを残した煮こごりが、体温でとろりと解けていく。
身の締まったカレイの旨味と、濃厚な煮汁のコク、そして卵の粒が舌の上で弾ける食感。
それが炊きたての飯の甘みと混ざり合い、至福の調和を奏でる。
冬の八戸を耐え忍ぶ者だけが知る、最高のご馳走。
「……美味い。志津、これは……言葉にならない」
「よろしゅうございました」
志津は、賢治が美味そうに頬張る姿を、満足げに、そして慈しむような目で見つめている。
彼女自身も、お雑煮を一口運びながら、静かに新年の喜びを噛み締めていた。
窓の外の銀世界は、いよいよ光を増し、青い影を白く塗り潰していく。
二人の間には、ナメタカレイの豊かな香りと、満ち足りた沈黙だけが流れていた。
食事を終え、賢治は年始回りの準備に取り掛かった。
銀行員として、この街の有力者たちへ挨拶に回るのは、一年の命運を左右する重い仕事でもある。
志津が、新しい足袋と、皺ひとつない外套を用意する。
「賢治さん、こちらをお持ちください」
志津が差し出したのは、数日前に彼女が自ら一枚ずつ、丁寧に端を切り揃えた名刺の束であった。
指先に伝わる和紙の柔らかな、それでいて凛とした腰の強さ。
賢治はその一束を、懐の最も深い場所へと収めた。
「ああ、預かるよ。……今日からまた、戦いだ」
「いってらっしゃいませ。健やかな一日となりますよう、お祈りしております」
玄関の引き戸を開けると、眩しいほどの雪が賢治を迎えた。
新しい藁靴が、雪を踏みしめる「キュッ、キュッ」という小気味よい音。
賢治は一度だけ振り返り、深々と頭を下げる志津の姿を目に焼き付けると、銀世界の中へと力強く足を踏み出した。
背後で戸が閉まる音と共に、家の中から漏れ聞こえていた松の香りが、冬の澄んだ大気に溶けて消えた。
八戸の元旦。
真っ白なキャンバスに、賢治の足跡だけが、一歩ずつ新しい歴史を刻んでいった。
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今回は表現を少し変えてみました。
元旦から実験してみました。




