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月待ちの灯(あかり)  作者: しゅう


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大晦日

主人公 牧野 賢治

妻 牧野 志津

大晦日の朝は早い。まだ薄暗い台所に立った志津が、真っ先に確認したのは昨夜のナメタカレイだった。

鍋の蓋を取ると、琥珀色の煮汁が見事にぷるぷると固まり、深い艶を放っている。箸を入れずとも分かる、完璧な「煮こごり」の状態だ。

「……よし」

志津は小さく頷いた。この煮こごりを温かい飯に乗せて食べるのが、賢治の密かな楽しみであることを彼女は知っている。黒豆も皺ひとつなく艶やかに炊き上がり、田作りの香ばしい匂いが鼻をくすぐる。


志津の指先は、迷いなく動く。

重箱の隅々に、彩りよく料理を詰めていく。

「まめ(健康)」に働けるようにと黒豆を、「見通しが良くなるように」と蓮根を。

銀行員の妻として、夫の健康と出世、そして家の繁栄を祈るこの時間は、志津にとって一年のうちで最も神聖な儀式だった。

パチパチと爆ぜる火鉢の音を聞きながら、志津はふと、二日酔いで頭を抱えていた一昨日の賢治を思い出し、ふふっと一人で微笑んだ。

「さあ、賢治さんが起きてくる前に、お蕎麦の出汁も引いてしまいましょう」

家中に満ちる出汁の香りが、新しい年を呼ぶ合図のように、静かな台所に広がっていった。



志津に頼まれた最後の手土産を抱え、賢治は雪道を一歩ずつ踏みしめていた。

昨夜までの慌ただしさが嘘のように、御用を納めた銀行員としての自分はここにはいない。今の自分は、ただの「一人の男」としてこの街に立っている。

通りには、正月用の買い出しに走る人々や、門松が設えられた商店が並び、誰もがどこか晴れやかな顔をしていた。

「……ふう」

吐き出す息が白く染まる。冷たい空気が、数日前まで仕事で張り詰めていた頭を心地よく冷やしてくれた。


ふと、自宅の方角を振り返る。

今頃志津は、あの温かな台所で、立ち上る湯気に包まれながら立ち働いているはずだ。

完璧に整えられた正月飾り、塵ひとつない部屋、そして食欲をそそるナメタカレイの煮付け……。

それら全てが、当たり前のようにそこにあるのは、志津という女性が一日も欠かさず家を守ってくれているからだ。

(私は、あの人にどれほどの苦労をかけているのだろうな)

二日酔いで醜態をさらした自分を、何も言わずに介抱してくれた彼女の横顔を思い出し、賢治は少しだけ目元を緩めた。銀行という、数字と責任に追われる世界で戦えるのは、帰るべき場所がこれほどまでに清らかで温かいからなのだと、改めて噛み締める。


「さあ、帰ろう」

馴染みの店への挨拶を済ませ、賢治は足を早めた。

今夜は、志津の作った料理を囲み、二人で静かに一年を振り返るのだ。

重い雪雲の切れ間から、ほんの少しだけ明るい光が差し込んでいた。その光は、まるで二人が迎える新しい年を祝っているかのようだった。



外はすっかり日が落ち、八戸の厳しい冬の夜が家を包み込んでいた。

しかし、部屋の中は火鉢の炭が赤々とおこり、心安らぐ温かさに満ちている。

食卓の主役は、昨日からじっくりと味を染ませたナメタカレイの煮付けだ。志津が昼間に確認した通り、琥珀色の煮こごりが身の回りにぷるぷると美しく寄り添っている。

「……さあ、どうぞ。温かいうちに、お蕎麦も召し上がってください」

志津が勧める。賢治は箸を手に取り、まずはカレイの身を一口運んだ。

「……美味い。味がよく染みて、この煮こごりが口の中で溶けるのがたまらないな」

「ありがとうございます。良いカレイを届けていただいたおかげですわ」

志津は微笑み、自分も小さく箸を進める。

一年の苦労が、この一口で報われるような、そんな滋味深い味わいだった。


食事が一段落し、食卓を片付け、火鉢を囲んでお茶を飲んだ後、賢治は少し書き物をし、志津は明日の準備を整えるなどして、二人は静かな時間を共有していた。


遠くからゴーン……と、重く響く音が聞こえてきた。除夜の鐘だ。

一つ、また一つと、百八つの煩悩を払う音が雪の夜に吸い込まれていく。

賢治は茶碗を置き、居住まいを正して志津と向き合った。

「志津」

「はい」

「今年も一年、君には随分と支えられた。銀行の仕事に打ち込めたのも、家がこうして清らかに保たれていたからだ。……心から感謝している。ありがとう」

突然の、そして真っ直ぐな言葉に、志津は一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに深く、丁寧にお辞儀をした。

「……勿体ないお言葉です。私の方こそ、賢治さんが無事に一年を勤め上げてくださったことが、何よりの幸せでございます。来年も、どうぞよろしくお願い申し上げます」


顔を上げた二人の視線が重なり、どちらからともなく微かな笑みがこぼれた。

夫婦として重ねてきた月日が、この静かなやり取りの中に凝縮されている。

「おや、雪が強くなってきたようだ」

賢治が窓の外へ目をやる。

「ええ。明日の朝は、銀世界かもしれませんね」

二人は並んで、最後の鐘の音に耳を傾けた。

古い年が去り、新しい年が、松の香りと共に玄関まで届いているような気がした。

八戸の夜は更けていくが、家の中には、明日への希望という名の色鮮やかな灯が、静かに灯り続けていた。

読んでいただきありがとうございます。

下の★~★★★★★で評価してもらえると勉強になります。

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