歳神様
主人公 牧野 賢治
妻 牧野 志津
「よし、志津。今日は私がやろう」
昨朝の弱々しさはどこへやら、今朝の賢治は朝食を済ませるなり、袖を捲り上げて意気揚々と立ち上がった。
今日は三十日。明日、大晦日の「一夜飾り」は縁起が悪い。今日のうちに、家中の正月飾りを整えてしまわなければならない。
賢治は脚立に乗り、玄関の鴨居に真新しい注連縄を張っていく。
「賢治さん、左が少し下がっているようです」
「おっと、こうか?」
「ええ、……あ、今度は右が。……ふふ、それで丁度よろしゅうございます」
志津は下から声をかけながら、夫が一生懸命に「家の主」としての役目を果たそうとする姿を眩しそうに見守っていた。彼が脚立から降りて別の場所へ向かうと、志津はそっと、その歪みを指先で数ミリだけ整える。夫の面目を保ちつつ、家の「顔」を完璧にするのは、志津にとっていつもの、そして楽しい仕事だった。
賢治が外で松飾りを整える槌音を聞きながら、志津は台所で「年取り魚」と向き合っていた。
湊の市場から届いたばかりのナメタカレイ。その身の厚さは、志津の指の節を優に超え、腹には黄金色の卵がずっしりと詰まっている。
「さあ、美味しくなりましょうね」
志津はまず、カレイの表面にある独特のヌメリを、柳刃包丁の背で丁寧にこそげ落とした。このひと手間が、仕上がりの雑味を消すことを彼女は知っている。
次に、皮に十字の切り込みを入れ、熱湯をさっと回しかける。表面が白く霜降りになったところで冷水に取り、残った汚れを指先で優しく拭う。
大鍋には、水と酒、たっぷりの濃口醤油、そして多めの砂糖。志津の味付けは、冬の寒さに負けないよう、ほんの少し濃いめだ。
そこに厚切りにした生姜を放り込み、煮立ったところへカレイを静かに沈める。
落とし蓋をして、弱火でじっくり。煮汁が少しずつ、カレイの身と卵の奥深くまで染み込んでいく。
夕暮れ時、家中に甘辛い、そしてどこか懐かしい醤油の香りが立ち込めた。
外仕事を終え、冷えた体で戻ってきた賢治が、玄関を開けるなり大きく鼻を鳴らした。
「……いい香りだ。今年も、いいカレイが手に入ったようだね」
「はい。先ほど火を止めました。一晩置いて、味がしっかり落ち着いた頃が食べ頃ですよ」
煤ひとつない部屋。玄関には凛とした松飾りが立ち、床の間には白い半紙を敷いた鏡餅が鎮座している。
松の清々しい香りと、ナメタカレイの芳醇な煮汁の香り。
二人は並んで、整えられたばかりの家の中を見渡した。
「お疲れ様でした、賢治さん。これでいつ歳神様がいらしても大丈夫ですわ」
「ああ。志津もお疲れ様。……いい年になりそうだ」
二人は小さくお辞儀を交わした。窓の外では、八戸の冬らしい重い雪が静かに降り始めていたが、家の中には確かな、そして温かな達成感が満ちていた。
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