忘年
主人公 牧野 賢治
妻 牧野 志津
みどり楼の大広間は、三味線の音と行員たちの怒号のような笑い声に包まれていた。
今夜の賢治は、いつもの皮を脱ぎ捨てていた。注がれる酒を気前よく空け、同僚の肩を叩いては、学生時代のような屈託のない笑い声を上げている。
「おい、もっと注げ! 今日ばかりは、一銭の狂いも忘れてやる!」
敬語もどこへやら、少し崩れた座り方で冗談を飛ばすその姿は、志津と出会う前、未来への不安と期待だけで生きていた頃の、自由な青年の顔だった。部下たちは驚きつつも、普段見せない上司の陽気な姿に、さらに酒宴を盛り上げた。
宴がたけなわとなり、御膳に並んだ豪勢な料理も残るばかりとなった頃、賢治の動きがふと止まった。
仲居が残りを折詰に詰め始めようとするのを見て、彼は急に端座し、乱れた襟を正した。
「……ああ、それ。すまないが、丁寧に包んでやってくれ」
言葉遣いが、いつもの静かな調子に戻り始める。
折詰の重みを手にした瞬間、賢治の脳裏には、自分が今朝踏みしめた、志津が綺麗に掃き清めてくれたあの雪道が浮かんだ。
自由な青年は影を潜め、一人の「夫」としての自覚が、酒の霧を晴らしていく。
「これを持っていけば、志津も喜ぶ……はずだ」
みどり楼を出た賢治は、折詰を大切に抱え、雪道を歩き出した。
冷たい夜風が火照った頬を撫でる。足取りはまだ少しおぼつかないが、心はひどく陽気だった。一年の務めを終え、手土産を手に、待ってくれている人がいる家へと帰る。それは、独り身の自由よりも、ずっと重みのある幸福だった。
「……ただいま、志津」
玄関を開けると、そこには灯を灯して待っていた志津がいた。
賢治は満面の笑みで折詰を差し出した。
「みどり楼の、いいところを詰めてもらった。食べてくれ」
「……まあ。お気遣いは嬉しいですけれど、賢治さん、いくら何でも飲みすぎです。お酒の匂いが外まで漏れていますよ」
感謝の言葉のすぐ後に飛んできた、ピシャリとした小言。
賢治は「面目ない……」と粛々と首をすくめた。銀行での威厳も、みどり楼での奔放さも、志津の正論の前では形無しだった。
着替えを促され、布団に滑り込んだ瞬間、耐えがたい睡魔が襲ってきた。志津の小言を子守唄代わりに聞きながら、賢治は深い、深い眠りへと落ちていった。
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