決算
主人公 牧野 賢治
妻 牧野 志津
12月25日。朝の八戸は、抜けるような青空だった。
昨夜の「深更」までの疲れは、志津が淹れた濃い茶と、凛と張り詰めた冬の朝気で拭い去られた。賢治は、晴れ渡った空の下、乾いた路面を踏みしめて銀行へと向かった。
(今日は、年内最大の山場だ。)
外套の襟を立て、賢治は自らに言い聞かせた。今日一日で、電燈会社への融資決裁を含むすべての勘定を合わせなければならない。
銀行の奥深く、
賢治の目の前には、巨大な帳簿と、数千、数万という数字の羅列が広がっていた。年末の決算は、まさに「大詰め」を迎えていた。一銭の狂いも許されない。一人の商人の命運、そして八戸の未来の「光」が、このペン先一つに懸かっている。
パチパチ、と弾かれる算盤の音だけが、静まり返った部屋に響く。
賢治は、昼食を摂ることも忘れ、時の流れさえも意識の外に置いた。電燈会社、製氷会社、そして地元の小商いたち。それぞれの利害と、銀行としての信用。
彼は、冷徹な数字の裏側にある「人々の営み」を、一つひとつ自らの魂で計量していった。
すべての決裁に署名を終え、帳簿を閉じたとき、時計の針は既に夜の帳を深く下ろしていた。
賢治は、凝り固まった肩を回し、ようやく眼鏡を外した。頭の中は依然として数字の残像で溢れていたが、やり遂げたという重い充実感が身体を包んでいた。
外套を羽織り、重厚な銀行の扉を押し開ける。
「……っ」
賢治は、一瞬、足元をすくわれるような感覚に陥った。
目の前に広がっていたのは、朝の晴天からは想像もつかない、音を失った白銀の世界だった。
いつから降り始めたのか。
街灯の光に照らされた雪は、しんしんと、しかし容赦なく降り続いていた。路面は既に厚い雪に覆われ、朝、自分が踏みしめた乾いた土の感覚はどこにもなかった。
外に出るまで、雪が降っていることさえ気づかなかった。それほどまでに、自分はあの密室で、数字と孤独に没頭していたのだ。
賢治は、新雪に最初の一歩を刻んだ。
キュッ、という雪の鳴る音が、数字で埋め尽くされていた脳を、冷たく、清らかに洗っていく。
(志津は、この雪の中、待ってくれているだろうか。)
一歩進むたびに、銀行員としての「冷徹な鎧」が剥がれ落ちていく。
白く塗りつぶされた街の中で、賢治はただ一人、志津が守る我が家を目指して、雪の夜道を歩み始めた。
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