深更
主人公 牧野 賢治
妻 牧野 志津
昨日、街を包んでいた天長節の清廉な空気は、一夜明けて霧散していた。代わって八戸の街に満ちたのは、年末最終営業日(御用納め)を目前に控えた、生々しい金の匂いと焦燥感だった。
家々の軒先から日の丸の旗が片付けられるとともに、人々の関心は「国家の慶事」から「目前の勘定」へと一気に引き戻される。
志津は、冷え込みが厳しくなった夕暮れの台所で、賢治の帰りを待っていた。今朝出掛けに、今夜は銀行業務で、遅くなると言っていた。
窓の外、遠くから聞こえるのは、馬車の轍の音と、飲み屋街から漏れる荒っぽい笑い声。それは、お欄が生きる『みどり楼』の周辺に漂う華やかな音のように志津には聞こえた。
銀行が扱う「数字」も、お欄たちが扱う「情」も、この年末という瀬戸際では、どちらも逃げ場のない「清算」となって人々に襲いかかる。
志津は、昨日賢治が纏っていた天長節の誇り高い表情を思い出していた。
ふと、鼻先をかすめる匂いがあった。冷たく、どこか懐かしい、雪の前触れの匂いだ。
志津は、賢治のために用意した火鉢の炭を、丁寧に、音を立てないように整えた。志津ができることは、彼がどれほど「金の匂い」に塗れて帰ってきても、この家だけは「雪のように清らかな場所」であり続けることだ。
日付が変わろうとする頃、ようやく玄関の鍵が開く音がした。
入ってきた賢治の外套からは、凍てつく風の匂いと、煙草、そして何より「使い古された紙幣の匂い」が重く漂っていた。彼の顔は土色に疲れ果てていたが、志津と目が合った瞬間、一本の芯の通った瞳が微かに光った。
志津は何も聞かず、ただ「おかえりなさいませ」と深く頭を下げた。言葉による労いよりも、温かい白湯と、整えられた寝床。
「公」の戦場から戻った戦士を、「私」の安寧が静かに、優しく包み込んでいった。
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