街角
主人公 牧野 賢治
妻 牧野 志津
娼館の女 お蘭
冬至を翌日に控えた八戸の街は、年の瀬特有の焦燥と熱気に満ちていた。
賢治は、銀行から出て、港に近い問屋街へと足を向けていた。年末の挨拶回りは、銀行の信用を維持する上で最も重要な業務の一つである。賢治は、仕立ての良い外套をまとい、その内側に銀行員の清廉な平静さを保っていた。
彼の脳裏には、昨日、「勘定」の重圧から解放された静かな安堵と、志津が煮込んでいたかぼちゃの温かい甘さが残っていた。しかし、公の場に出た今、賢治はそれら私的な情を全て胸の奥に押し込め、鋼の鎧を身に纏う。
街の賑わいは凄まじい。冬至のための柚子やカボチャを買い求める人々の喧騒、年末の帳簿を締める商人の活気。そのすべてが、賢治が守る銀行の「勘定」という巨大な渦の一部であった。
賢治が、最も大口の取引先である水産問屋での挨拶を終え、銀行へと足を向けた。
賑わいの続く一角を曲がったその時だった。
賢治はそこで、予期せぬ人物と出会った。
「あら、賢治さん!」
声の主は、お欄さんだった。彼女は、華やかな着物に煤けた綿入れを羽織り、港で働く人々や商人を相手に、テキパキと何かを指示している最中だった。彼女の周りには、金の匂いと情熱の熱気が渦巻いていた。
賢治は一瞬、公的な平静を保とうとして、表情を硬くする。しかし、お欄はそんな賢治の様子など気に留めず、賢治の傍までやってきた。
「年の瀬の挨拶回りですか。お寒いのにご苦労さんなこったね。この辺りは『義理』が一番重いから、銀行さんも大変でしょう。」
お欄はそう言って、悪びれる様子もなく、賢治の外套の肩についた埃を一つ、払った。その近すぎる距離と、遠慮のない情の動きに、賢治は僅かに動揺する。
「昨日、志津さんのところへお邪魔しましてね。」
お欄は、目を輝かせて続けた。
「志津さんが、冬至が近いからってかぼちゃを煮ていたんです。あれは美味かったね!あんな風に、時間をかけてじっくり煮込んだものは、すぐに稼いだ金で手に入る華やかな菓子なんかより、よっぽど体に沁みるものさ。」
お欄は、賢治の顔を真っ直ぐに見つめた。
「志津さんはね、あんたのために、あんたの家を丁寧に守り続けているよ。志津さんは、あんたの財産だね。」
お欄は志津の深い思いを、賢治にストレートに伝えた。
賢治は、お欄の言葉と、娼館という非公的な場所の板挟みになった。
「…志津への心遣い、感謝する。お欄さんにも、年の瀬の安寧があることを祈る。」
賢治は、それだけを伝え、深々と頭を下げた。
お欄は、賢治の平静を崩さない礼儀正しさを面白がるように、微笑んだ。
「おや、珍しい。あんたが私に頭を下げるなんて。ま、いいでしょう。あんたの銀行は、私たち八戸が支えている。それを忘れないでおくれよ。」
お欄はそう言い残し、賑やかな人々の輪の中へと戻っていった。
賢治は、再び公の平静さを取り戻すよう、強く自らに言い聞かせた。
(そうだ、私は銀行の行員だ。近代の清廉な光を八戸に導く責務がある。)
賢治は、清廉な外套の襟を正し、銀行へと足を向けた。
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