電燈
主人公 牧野 賢治
妻 牧野 志津
年内最終の大きな決済日が迫り、銀行内の空気は、昨日までの焦燥感を超え、極度の緊張に包まれていた。
行員たちは、誰も声を上げない。そこにあるのは、「一寸の誤差も許されない」という、公的な勘定の重圧だけだ。賢治は、奥の行員席で、分厚い帳簿と融資関係の書類を広げていた。
賢治は、目の前の数字が八戸の経済という巨大な機関車を動かすための歯車であることを知っていた。この歯車に狂いが生じれば、街全体が停滞する。
午前中、賢治は、年内最後の大きな融資案件の最終確認を任された。
それは、以前対応した海産物問屋の回収困難な勘定とは対極にある案件だった。八戸市周辺の電灯供給拡大を担う「八戸電燈株式会社」への、大規模な追加融資の査定である。
賢治の目の前にあるのは、数万という桁の数字が並んだ書類と、八戸市内の電灯普及計画の青写真だった。
「これは、八戸の未来だ。賢治、間違いがあってはならんぞ。」
上司の声が、厳しく響く。賢治は、筆を握りしめた。この融資の成否が、八戸の夜を照らす光となるか、銀行の負債となるかを分ける。
賢治の頭の中で、電灯の「近代の光」と、自宅の「火鉢」が対比された。電灯が、やがて八戸の隅々まで普及すれば、人々の夜の暮らしは変わり、生産性も上がるだろう。
(私が今、向き合っているこの勘定は、家庭の灯りさえも、やがて新しい光に変えていくのかもしれない。)
賢治が守る「銀行の清廉さ」とは、過去の義理(回収)に厳格であると同時に、未来への投資にも厳格でなければならないのだ。この未来を切り開く勘定の重さは、賢治の心を高揚させると同時に、測り知れない孤独を伴った。
決済が近づくにつれ、銀行内の緊張は頂点に達した。
賢治は、すべての数字を二重、三重に確認した。一寸の誤差は、賢治の清廉さ、そして銀行の信用そのものを崩壊させる。
賢治は、己の「情」を完全に排除し、ただひたすらに「公」としての機能に徹した。それは、以前の問屋の主人への非情な宣告と同じく、自己の内面を削る行為だった。しかし、この厳格な清廉さこそが、八戸の近代化という大きな責任を背負う銀行員に課せられた役目であると、賢治は深く理解していた。
午後遅く、八戸電燈への融資の最終手続き、そして年内最終の主要な勘定が、誤差なく完了した。
賢治の全身を襲ったのは、達成感よりも、極度の緊張からの解放による、鉛のような疲労だった。
銀行の扉を出た賢治は、師走の冷たい闇と、街灯の新しい電灯の光に包まれた。まだ普及途中の八戸の街では、電灯の冷たい光と、伝統的な提灯や商店の灯りが混ざり合っている。
賢治は、その冷たい近代の光を見つめながら、家へと急いだ。
賢治が今求めるのは、未来の青写真でも、電灯の冷たい光でもない。志津が待つ茶の間だ。
公の責任を果たし終えた賢治は、孤独な清廉さを脱ぎ捨て、私的な温もりを求めて、師走の道をしっかりと踏みしめて歩いた。
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